2011年1月4日火曜日

「イエス様 彼らをお赦しください」 マルコ14章32-42章

今回で「人は試練の時どう祈るか」の学びも終わりとなります。そして今日で、今年の聖書研究祈祷会も終わりとなります。この一年間、皆さんも上にも色々な事が起こったでしょう。その中には、感謝な出来事もあれば、傷ついたり、苦しかった事もあるかもしれません。そういったことをも、もう一度、御言葉の光のもとに出しながら、今日学ぶのは「父よ、彼らをお赦しください」との祈りです。

ゴルゴダの丘で、彼らはイエス様を十字架につけました。手と足には五寸釘、両脇には犯罪人、そして足下には自分の着物を分けあう人々です。想像してみてください。自分はまだ生きているのに、自分の着物を奪い合っているのです。まさに死肉に群がるハイエナのようです。まともな感覚の持ち主だったら「何で俺をこんな目にあわせるんだ、俺が何をした!」と半狂乱になってもおかしくはないと思います。でもイエス様は沈黙しておられました。そればかりか直前では、泣く女性たちを気遣われ「エルサレムの娘たち。わたしの事で泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子供のことで泣きなさい(28)」と声をかけられたのです。

耐え難い、肉体的苦痛、そして精神的苦痛です。十字架が、丘の上の穴にドスンと差し込まれた時、その勢いで手足に全体重がかかり、傷口が無残にも裂けたことでしょう。また、鉛のついた鞭で激しく打たれ背中は、皮も肉もそぎ取られ、そこから血と水分が急速に失われ、意識はもうろうとしていたことでしょう。しかし、そういった中でもはっきり聞こえてくる、鳴りやまぬ、罵声と、罵り、非難と、中傷。そういった過酷な状況の中で、イエス様はこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(34)」。

苦しみの中で、私たちの目の前には、二つの誘惑が大きく口を開けています。一つは「自己憐憫」です。自分の苦しみに目をとめ、悲哀(ひあい)にくれ、ひとりでも多くの人に自分の苦しみを知らせ、自分のために泣いてくれる人を探すのです。もう一つは「憎しみ」です。自分の正義を主張し、自分をこんな目にあわせた人を恨み、どうしたら復讐できるものかと、思いめぐらすのです。でもイエス様は、どちらの誘惑にも飲み込まれませんでした。イエス様は、ただ「赦し」を祈られたのです。これを「イエス様だから」と片付けるのではなく、赦された者の一人として、同じように祈ることが大切なのではないでしょうか?簡単なことではありません。許そうと向き合えば、苦々しい感情が噴き出してくることもあります。

自分の感情と戦ってはいけません。ジョンホワイトはこう書きます。「あなたは誰かに対して批判的になっていますか?…もしもあなたが不正にあい、怒っているいのなら、間違いなくあなたの非難の気持ちには憎しみが混じり合っています。非難と憎悪です。もちろん、あなたがクリスチャンなら(しかも真面目なクリスチャンなら)、許さなければいけないことをよく承知しているでしょう。しかし相手が相変わらず状況を悪化させていたり、繰り返し、あなたの苦痛を増し加えていたりするならば、許すことができるでしょうか。無理なのです(P182 意訳)」。

でも私たちには「父の赦し」を祈ることはできるのです。自分の力で許すのではありません。問題をもっと高いレベルに引き上げ、父の手にゆだねるのです。「父よ、彼を赦して下さい。あなたは私の罪を赦して下さいました。そして多くの罪人を赦し、生まれ変わらせてくださいました。彼は今、自分で何をしているのか分からないのです」。あなた自身は許さなくてもいいと言っているのではありません。赦しと許しは表裏一体です(主の祈り)。ただ時間がかかるのです。父の赦しを何度も祈ることで、私たちの心もその愛によって溶かされ、少しずつ許す者へと変えられていくのです。

そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ。彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか
自分でわからないのです。」
彼らは、くじを引いて、
イエスの着物を分けた。
(マルコ14章34節)

「イエス様 しかし御心のままを」 マルコ14章32-42章

私たちは今まで「人は試練の時どう祈るか」というテーマで学んできましたが、いよいよ今回を含めて、残すところ2回となりました。今回学ぶのは「ゲツセマネの祈り」。この祈りを語らずして、試練の中の祈りを語ることはできません。マルコ福音書には書かれていませんが、ルカ福音書には「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた(22:44)」とも記されています。その壮絶な祈りの全貌を、ともに読み進めて行きましょう。

ゲツセマネの祈りの直前、ペテロとイエス様の会話が記されています。ペテロは力を込めてこう言いました。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません(31)」。でもその結果は、皆さんもご存じのとおりです。彼は三度も「イエス様を知らない」と否認してしまったのです。彼の熱心さは、霊的なものではなく、肉的なものでした。「俺様は絶対にそんなことしない」とも聞こえます。でもイエス様は言われました。「心は燃えていても、肉体は弱いのです(38)」。十字架の道は、いってみるなら、濁流の川のようなものです。ペテロのように、どんなに勇ましく飛び込んでも決して渡れないのです。その川は、ただ「祈り」によってしか渡れないのです。

イエス様はゲツセマネで、弟子たちにもともに祈るようお願いされました。今日の箇所には「わたしが祈る間、ここに座っていなさい(32)」としか書かれていませんが、もちろんそれは、ともに祈っていなさいという意味でもあります。当然、イエス様は、まことの神ですから、人からのとりなしは必要とされません。でもイエス様はこれから、人の罪を背負い、父なる神(アバ父)との完全な断絶を味わおうとしているのです。その瞬間、神の子としての栄光は消え失せ、ひとりの人として闇に飲み込まれようとしているのです。特に親しい信仰の友(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)にも、一緒に祈ってほしいと思うのは当然ではないでしょうか。

「あなたの無関心によって、声なき叫びをあげている人はいないでしょうか?」先日ラジオを聞いていたら、そんな公共広告が流れてきました。イエス様でさえ、友からの祈りの支援(とりなし)を必要とされました。だとしたら私たちは、尚更の事ではないでしょうか?あなたには、いざという時、祈りの要請をできる「とりなしのグループ」があるでしょうか?またあなたの周りには、あなたの祈りを必要としている人はいないでしょうか?もしかしたら、苦しみもだえる人の目と鼻の先で、私たちも弟子たちのように、呑気に眠りこけているのかもしれません。

イエス様は、苦しみもだえ始められました(34)。有名な祈りです。「アバ父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください(36)」。ここから、祈りとは何かを知ることができます。それは、自分の願いを神様に押し付けることではなく、むしろ自分の願いを、神様のみこころに一致させるための大切な過程だということを。もしかしたら、血の汗を流すほど苦しい事かもしれない。でもその先に、本当の勝利があるのです。

「もう十分です」。私は長い間、イエス様が何回言っても眠りこける弟子たちにうんざりされたから「もう十分だ!」と言われたのだと思っていました。でも違いました。この言葉には「もうこれでいい(もはや葛藤はなくなりました)」との意味があるそうです。イエス様は十字架の上で勝利を取られましたが、その勝敗は、このゲツセマネで決まっていたのです。◆私たちも同じです。勝負は、家を出る前の、密室の祈りで決まるのです。あなたのゲツセマネはどこですか?そこが「人生の主戦場」です。

まだ眠って休んでいるのですか。
もう十分です。時が来ました。
見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行くのです。
(マルコ14章41-42節)

「パウロ 愛を知ることができますように」 エペソ3章14-21章

「パウロ:愛を知ることができますように」 エペソ3章14-21章
前回に引き続き「エペソ人への手紙」から「試練の時の祈り」について教えられたいと思います。パウロは1章で「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか…知ることができるように(18‐19)」と祈りました。試練の時に大切なのは、ない物ねだりをすることではなく、既に与えられている「恵み」に心の目が開かれることだったのです。今日はその続きです。

あらためてパウロは、ひざをかがめて、父の御前で祈ります(14-15)。なぜ祈るのか?それは天の父こそが「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方(20)」だからです。私たちは、そのことを本当に信じているでしょうか?たとえ八方ふさがりでも、万策(ばんさく)尽きたように見えても、まだ希望が残されていることを。今も生きて働かれる神様にこそ本当の希望があります。ひざをかがめて祈るとは、神様の御前に自分を空しくすることです。単なるポーズではなく、心の姿勢が問われています。そこからすべてが始まる。そこから神様の栄光が見えてくるのです!

どうか天の父が、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように(16)。よく、「しっかり愛された人の心は折れにくい」といいます。だから親の愛は大切だと。でも人の与える愛は完全ではありません。親の愛であっても…です。だから私たちは神様の愛に「深く根差し」そこに「基礎を置く」必要があるのです(17)。パウロはこう祈ります。「(どうか、その愛の)広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように(18-19)」。でも、どこか抽象的です。愛は目に見えないのでしょうがないのですが、もっと具体的に言えないのでしょうか?そういえば、この祈りの最初は「こういうわけで」という言葉で始まっています。

パウロの確信は、どうしようもない自分が、一方的な恵みによって救われたことです。2章にはこうあります。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、共によみがえらせ、ともに天のところに座らせてくださいました (3-6)」。また3章でも。「すべての聖徒たちのうちで一番小さなわたしに、この恵みが与えられた(8)」と告白しています。この十字架の恵みに根差すことが大切で、この十字架の恵みをますます深く理解するときに、どんな試練の中でも決して折れない心が与えられるのです。

他のどこかに解決があるのではありません。キョロキョロするのを止め、十字架の愛にしっかりとどまり、この愛に根を張ることができますように。その時キリストの愛が私たちの人生全体に流れ始め、私たちは「神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされる(成長させられる)」のです(19)。マラソンのQちゃんこと高橋尚子選手の座右の銘を思い出します。「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」。試練の時の祈りも、同じではないでしょうか?

あなたの人生は、何に根をおろしていますか?人は何に根をおろしているかによって、咲かせる花も決まってきます。十字架に根差す者の花からは、キリストの香りがします。そしてそういったクリスチャンの集まる教会を通して主の栄光が現れるのです!

また、あなたがたが
すべての聖なる者たちと共に、
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超える
この愛を知るようになり、
そしてついには、
神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。
(新共同訳3章18-19節)

2010年11月18日木曜日

「パウロ 心の目がはっきり見えるように」 エペソ1章15-23章

「人は試練の時、どう祈るか」というテーマのもとに学びを続けていますが、今回と次回の二回にわたって、エペソ書に記されているパウロの祈りからともに教えられたいと思います。ジョン・ホワイトによれば、このエペソ書の中心は「パウロの祈り」だそうです。しかもこのエペソ書を書いた時、パウロは投獄されていました。まさしく試練の中の祈りです。彼は、獄中で何を祈ったのでしょうか?

最初に祈られているのは「感謝」でした。パウロはこういいます。「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています(15-16)」。驚きではないでしょうか?多くの場合、私たちは逆のことをしています。試練の中で自分のことばかりを祈り、兄弟姉妹に対しては何の感謝もなく、むしろ不平不満があるのです。与えられていることよりも、与えられていないことに目をとめ、ますます落胆するのです。でもパウロは試練の中でこそ、人のために祈り、「絶えず」「感謝をささげ」ています。私たちの心の目は、あまりにも、すでに与えられている恵みに対して、盲目なのではないでしょうか?

だからパウロは、私たちの「目がはっきり見えるように」祈られました。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように(18-19)」。私たちには、既に「天国の遺産」が与えられています。問題は、私たちがそのことに気付かず、いぜんとして貧しい者のように歩んでいることなのです。与えられている「聖徒の望み」も「栄光」も「全能の力」も、眠ったままではないでしょうか?それらは「知恵と啓示の御霊(17)」によって悟ることのできる事柄です。

ない物ねだりはもう止めて、与えられている恵みに感謝しなさい。日々の祈りの中でも、与えられていないものではなく与えられている恵みに目を開いてくださいと祈ることができますように。詩篇119篇18節にはこうあります。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」。もしも私たちの心の目が開かれるなら、日常生活も教会生活も180度変えられてしまいます。時に私たちは、自分はいったい何者なのか、キリストの十字架にどれほど変えられたのか、キリストのからだである教会に加えられたことがどれほど大きな恵みなのか、あまりにも分かっていないのです。

正しい認識が、正しい結果を生み出します。イエス様もそうでした。「なんだイエスか、ヨセフの息子じゃないか」とあなどり、何の期待もされなかった故郷では、あのイエス様でさえ何一つ奇跡を行うことができませんでした(マルコ6章)。教会に対しても同じです。「なんだ教会か?良く知っているよ。そして何の期待もしない」そういう人が集まる教会では、実際に何も起こらないでしょう。しかし、私たちの心の目が、教会本来の姿に開かれ、そこに全幅の信頼と期待を寄せるなら、イエス様もその教会では自由に働くことができるのです。教会とは何でしょうか?栄光の主、イエス・キリストの満ち溢れるところではありませんか!人がどう見ようとかまいません。クリスチャンがこの信仰に立つことが大切なのです。

あなたの心の目は、はっきり見えていますか?見なくても良いものを一生懸命見ていて、本当に見なければいけないものに目が閉じられているということはないでしょうか?◆あなたはもう既に救われ「栄光の富」をいただいているのです。そればかりか教会の一員となり、イエスキリストのいのちに預かる者となったのです。問題は、もう美しい白鳥なのに、自分をまだ醜いあひるの子だと思い込んでいることなのです。

教会はキリストのからだであり、
いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。
(エペソ1章23節)

2010年11月13日土曜日

「ヨブ:神への恐れ(畏れ)」 ヨブ記1章、42章

前回私たちは「畏れと情熱を伴った祈り」について学びました。ウザが、神の箱の転倒を防ごうと手を伸ばしたことは確かに「善意」からでしたが、「神の箱を自分が守らないと」と思う傲慢であったことを教えられました。彼は長い間ずっと、自分の家に神の箱があり、一緒に過ごすことによって、その存在に慣れ切っていたのかもしれません。神様をよく知っていることと、神様を畏れることは違います。神様の前に正しく歩んでいることと、本当に神様を畏れて歩んでいることは違います。一体どういうことなのでしょう。

ヨブは正しい人でした。ヨブ記の一番最初に、そのことが記されています。「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた(1:1)」。しかもそれは、「自分の息子があるいは罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思い、未然の罪まで聖別するほどの徹底ぶりでした。サタンが彼に手を伸ばし、家族と財産の全部を打った時も、彼は決して神に愚痴をこぼさず「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:21)」と主を賛美するのでした。

しかしそんな彼にも、危(あや)うさがありました。ヨブは自分の身の潔白を再三にわたって、訴えているのですが、ジョン・ホワイトはこういっています。「彼のあまりの頑固さが、自分を正当化し、できたら神様にもそれを認めさせようとする危険性をもっていたのです」。もちろん誰にも彼を責める資格はありません。もしヨブの悲劇をこうむったなら、誰がそれに耐えられるでしょうか?ヨブの友人は、そんな態度を傲慢と受け止めて、彼を責めました。でも結果的に彼らの方が、神様に戒められています(42:7)。正しい知識を並べても、そこに愛がないなら、何の値打もないのです。黙っていた方がましです。単なる知識は人を傷つけます。

同じことがヨブに対しても言えます。理解しにくいことかもしれませんが、たとえ自分が正しくて、潔白であっても、神様に対して口答えする資格は私たちにはありません。理由は…、私も考えてみましたが、なかなか説明が見つかりません。答えはただ一つ、「神様が神様であるから」なのです。ヨブも、この神様の偉大さに触れた時、こういう他ありませんでした。「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません(40:4-5)」。

沈黙もまた、祈りです。それは強情から来る沈黙ではありません。また、ただ神様が怖くて、震えている沈黙でもありません。大きな神様の臨在の前に、言葉を超えた深い交わり(畏れ)が生まれるからです。聖書にはこうあります。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て(詩131)」。祈り込んでいくと、目の前にふと、そういった「静寂」が広がっているのです。

こんな言葉を読みました。「ぶんぶんと、動く小枝に、小鳥はとまれない。主の祝福も、主を待ち望まない者にはとまれない」。時に私たちも、なんとか自分で解決しようと、なかなか静まれない時があります。すると、ますます言葉数が多くなり、ますます問題がこんがらがってくるのです。◆静まりなさい。人と格闘するのではなく、主の前に静まって、主と格闘しなさい。すると沈黙のうちに主が答えを与えて下さいます。理屈は本当の解決ではありません。主の臨在こそが、最終的な答えなのです。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。(42:5)
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。(42:6)

2010年10月29日金曜日

「ダビデ 畏れと情熱を伴った祈り」 Ⅱ列王記6章1-23節

前回は、ハンナの祈りから「(心を)注ぎ出す祈り」について教えられました。ハンナは耐え難い苦しみの中で、その悲しみを、全て主の前に注ぎ出したのです。すると何が起こったでしょうか?「ハンナの顔はもはや以前のようではなくなった」のです。状況が変わったのではありません。ハンナは祈りの中で「主へのまったき信頼」という勝利に導かれたのです。今日の箇所は、彼女の「心を注ぎ出す祈り」にも通ずる箇所です。しかし読めばわかるように、今日の箇所に「祈り」は一言も登場していません。今日学ぶのは、「祈りの姿勢」についてなのです。

いきなりですが、ウザはなぜ死ななければならなかったのでしょうか?彼が善意から、牛がひっくり返しそうになった神の箱に、手を伸ばして守ろうとしたのは明らかな事実です。「良くやった」と言われてもおかしくないのに…。でも、これはただの箱ではないのです。神様ご自身が「神の臨在の象徴」として定められた、神聖な箱なのです。聖書にはこうあります。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません(使徒17:24-25)」。つまりウザの行為は、悪気はなくても、自分が「神様」を守らなければ、とする傲慢な行為だったのです。

これはダビデに対する警告でもありました。ダビデは以前から油注がれ、王に定められていたのに、サウルに苦しめられました。しかしサウルも死に、7年間ユダを治めて後、ようやくイスラエル全土の王となったのです。「早くこの国を『一つ』にまとめなければ」とのプレッシャーもあったでしょう。そこでダビデは、新しい国の象徴として、エルサレムを新首都に定め、そこに神の箱を安置しようと考えたのです。一歩間違えば、これは神の箱の政治利用にもなりかねません。自分の利益のために、神様や、神様に属するものを利用してはいけないのです。ダビデのやろうとしていたこともまた、ウザと同じく畏れを欠いた行為でした。

三か月間頭を冷やし、ダビデは純粋な気持ちで契約の箱をエルサレムに迎えました。その際、ダビデは私利私欲を棄てて、神様の前で「力の限り踊った(14)」のです。それはただのダンスではなく、彼の心からの礼拝であり、祈りでもありました。そうすることで彼は、自分の「神様に対する愛と献身」を表明したかったのです。しかしミカルはそんな夫を窓から見下ろし、さげすんだのです(16)。彼女の言葉は非常に冷淡でした。「イスラエルの王は、今日ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって(20)」。これ以上の軽蔑があるでしょうか!

神を恐れる(畏れる)ことは、冷淡になることではありません。今日の箇所には、二つの警告が含まれています。一つは、神様への畏れをなくすことへの警告です。いつの間にか神様を自分のために利用していたり、自分が神様のために何かをしてあげないといけない、と思っていないでしょうか。もう一つは、冷淡になることへの警告です。神への畏れと、感情を隠すこととを混同してはいけません。ある人たちは、静かで、おごそかだったら、神様を畏れていると思い込んでいるのです。そして、感情豊かな礼拝や賛美、そして祈りを心の中で軽蔑しているのです。

あなたの祈りには、神への畏れと、熱い情熱があるでしょうか?いつの間にか畏れを失い、神の御名を自分のために利用したり、自分が祈ってあげなくちゃいけない、と思っていませんか?またいつの間にか、祈りが冷たく、形式的になっていないでしょうか?畏れをなくさないよう気をつけつつ、熱く熱心に祈ろうではありませんか!

マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、
イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。
家は香油のかおりでいっぱいになった。(ヨハネ12章3節)

2010年10月22日金曜日

「ハンナ 注ぎ出す祈り」 サムエル記第一 1章1-18節

「祈り」の学びを始めてから、もう6回目になりますが、今までに学んだ祈りは「とりなしの祈り」や「悔い改めの祈り」など「主のみこころに沿って、このように祈るべきだ」といった感じのものが多かったように思います。ジョン・ホワイトは、そのような祈りを「水準の高い祈り」と呼びます。また「水準の高い祈りは、個人的必要についての祈りの重要性を、低くするものでは決してありません」とも言っています。主の祈りを思い出しても「御名をあがめる祈り」「御国を求める祈り」「御心を求める祈り」に続いて「日ごとの糧(毎日の必要)を求める祈り」が来ています。私たちは高い水準ばかりで、祈ることを求められているのではなく、内側から自然にあふれてくる思いをぶつけることも許されている。

例えば、最初はとても自己中心な祈りを捧げていたとしても、神様との交わりの中で、真摯に神様と向き合い、自分と向き合うなら、その祈りは徐々に成長していくのです。再びジョン・ホワイトの言葉を引用します。「あなたが成熟していくと、神様の御旨、ご目的、名誉といったものへの関心が増してゆきます。とはいっても、どんなに成熟しても自分自身の嘆きや喜びを感じなくなるようなことはありません。…あなたの悲しみや、心の痛みについて神様に訴えることを決してやめてはいけないということです(p99)」。本当に成熟した祈りとは、神様の御心を求めながらも、自分の気持ちを、ちゃんと伝えられることではないでしょうか。

ハンナには苦しみがありました。いくら待っても子供が与えられないという悩み苦しみでした。当時の女性にしてみれば、これは今日とは比べものにならない程、大きな悩みでした。しかも夫のエルカナにはもう一人の妻がおり、その女(ペニンナ)にはたくさんの子供がいたのです!そればかりかペニンナはハンナを嫌い、軽蔑し、何かにつけて嫌がらせをしていたのです(6)。夫のエルカナは、ハンナを特別に愛していたようですが(5,8)、その愛が、余計にハンナを苦しめたと考えるのは行き過ぎでしょうか。彼女の心は、今にも壊れてしまいそうでした。

そんな中、彼女は悲しみをすべて神様のところに持って行きました。食事が終わると、宮に走り、そこで激しく泣きながら祈ったのです。「万軍の主よ。もしあなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主にお捧げします(11)」。これは取引の祈りではありません。胸の内を吐露(とろ)し、一心不乱に祈る中で、自然に導かれた祈りなのです。聖書には「主は…あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださる(Ⅱ歴16:9)」とありますが、彼女の心は、祈りの中で主と一つになったのです!

試練の中で、私たちは祈りに導かれます。ハンナはもちろん普段から祈っていたでしょう。でも試練を通して、更に霊的な深みに漕ぎ出して、祈る者へと変えられたのです。そして、その祈りの中で、余分なものがそぎ落とされ、主にまったき信頼を寄せる者へと変えられていきました。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった(18)、」この言葉が印象的です。サムエルが生まれる前に、彼女はもう勝利をとっていました。主へのまったき信頼、それこそが本当の勝利です。サムエルの出生は、その結果に過ぎません。祈りは、私たちを勝利へと導きます。

あなたの祈りは、いつの間にか一般的な祈りで終わっていないでしょうか。ハンナのように心を注ぎ出す祈りを、最近いつささげたでしょうか?私たちのこの地上での歩みは「試練の時、いかにして主と深い関係を築くか」によって決まってきます。困難な時にこそ、心を主に向けることができますように。そこに本当の解決があります。

わたしは、…銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。
彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。
わたしは「これはわたしの民」と言い、
彼らは「主は私の神」と言う。ゼカリヤ13章9節