前回はダビデの悔い改めの祈りから教えられました。その祈りの特徴は、いっさいの言い訳を棄てて、ただ主の前にへりくだり、砕かれた霊と悔いた心をもって、主の前に出ることでした。それこそが真の悔い改めなのです。そこで今日は、もう一歩進んで、悔い改めた後いつまで待ち続ければいいのかということを共に学びたいと思います。悔い改めの結果与えられる罪の赦しは一瞬です。でもその後の回復には「時間」がかかるものです。当然です。だって一度壊れてしまった、神様との関係や、人間関係が、再創造されていくのですから。自暴自棄にならず、「せっかく悔い改めたのに何にも良いかとなかった」なんてやけにならず、主の回復を待ち望む姿勢を、ダニエルの生涯からともに教えられたいと思います。
キーワードは70年です。ある日、ダニエルは聖書(エレミヤ書)を読んでいました。するとそこに、こんな記述を発見したのです。「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える(25:11)。見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの捕われ人を帰らせると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する(30:3)」。ダニエルはこの言葉を読んでどんな気持がしたでしょうか。月日は流れ、捕囚が始まってから75年が経過していました(諸説を参考の上、捕囚開始:前597年、ダリヨス即位:前522年で算出)。
約束の70年はとっくに過ぎている…。この現実の前に、ダニエルは「エレミヤの預言は実現しなかった」とうなだれたでしょうか?神様を疑ったでしょうか?聖書を疑ったでしょうか?いいえ、そのどれでもなく、ダニエルは「顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた(3)」のです。そして「ああ私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方(4)」と祈りました。ダニエルは聖書の言葉に希望を置き、必ず成し遂げて下さる神様に信頼しました。私たちはどうでしょうか?あまりにもすぐ諦めたり、落胆したりしているのではないでしょうか?
更にダニエルは、徹底して悔い改めます。「私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行い、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました(5)。主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのものです(7)…。主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです(8)」。ここでダニエルが「私たちは罪を犯した」と祈っていることに驚きを覚えます。彼は誰でしょうか?どんなときにも絶対に妥協せず、獅子の穴にも投げ込まれ、勝利した、あのダニエルではありませんか(6章)!なのにその彼が、罪人の一人として、いやその代表として、今一度徹底的に悔い改めているのです。
そこには、70年という言葉は一度も出てきません。私たちだったら「主よ、もう約束の70年はとっくに過ぎています…」と、不平不満の一つや二つ出てもおかしくはないのではないでしょうか?でもダニエルは、そういったことを一言も言わず、ただ主の憐れみにすがっているのです。そこに主を恐れる者の姿をみることができます。彼は祈りました。「主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行ってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです(19)」。
私たちが、約束のものを手に入れるのに必要なのは忍耐です。私たちには、70年との明確な期間はないかもしれません。でもあまりにも多くの場合、自分勝手に期限を決めて、諦めてしまっているのです。待ち望みなさい。御前に悔いた心をもって、祈り続けなさい。主の約束の成就は、目には見えなくても、確実に迫ってきているのです。
主も、あなたがたを、
私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、
最後まで堅く保ってくださいます。(Ⅰコリント1章8節)
2010年10月16日土曜日
2010年10月6日水曜日
「ダビデ 悔い改めの祈り」 Ⅱサムエル12章 詩篇51篇
ダビデと言えば、イスラエル史上最高の王様であり、イエス様でさえも「ダビデの子イエス様」と呼ばれました。しかし実際に、その生涯を見てみると、ダビデといえども私たちとは変わらない「生身の人間」であることが分かります。いや、ある人は「彼は普通の人間以下でしょう」と言うかもしれません。でも本当にそうでしょうか?罪に同情してはいけませんが、私たちは、そんなダビデからも学ぶことがあるのではないでしょうか?特に「悔い改めの祈り」に関しては…。
ダビデの罪はウリヤの殺害でした。その原因は、姦淫(情欲)でした。ダビデはウリヤの妻バテシェバと関係をもち、彼女が身ごもると、それをもみ消そうとウリヤを殺害したのです。とはいっても、ダビデが直接手を下したのではなく、ウリヤを激戦の最前線に出し、間接的に「見殺し」にしたのです。確かに、間接的ではありましたが、首謀者はまぎれもなくダビデ本人です。聖書にはこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです(ヤコブ4:1-2)」。どうしてこうなってしまったのでしょう。どうしてもっと早く引き返せなかったのでしょうか?
それは罪によって、霊的に麻痺していたからです。ナタンが「金持ちと貧しい人のたとえ話」をした時、ダビデは「そんなことをした男は死刑だ」と烈火のごとく怒り始めました(5)。実は、これこそが霊的に破たんした者の姿なのです。聖書にはこうあります。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(ヤコブ1:15)」。罪の本当の恐ろしさは、罪の結果ひき起こされる「霊的な死」です。死人に感覚がないのと同様に、罪を放置しておくと、私たちの良心は麻痺していき、やがて悔い改めることさえできなくなっていくのです。そればかりか、それをカモフラージュするように、周りを訴え、神を訴えて孤立を深めて行くのです。
人は、なかなか自分の罪を認めようとしません。それどころか、周りの人々の悪意を取り上げては、アイツらの方がヒドイと騒いでみたり「誰がそんなことを告げ口した!?」と逆恨みしたり、また時には自分の生い立ちや環境のせいにしては、自分を犠牲者(可哀そうな人)にしたて上げてしまうのです。気を付けて下さい!カウンセリングだって一歩間違うと「自己正当化の道具」となってしまいます。罪の原因は色々あるでしょう。しかし、誰かのせいにしている限り、真の解決もないのです。ジョン・ホワイトはこう言います。「自分を守るのはやめなさい。我々が根本的に、罪深い者であるという事実をはっきり見つめ、無条件に受け入れ、完全に認めるまでは。神様の恵みも力を発揮することができないのです」。
「私は主に対して罪を犯した(13)」それがダビデの結論でした。もちろんウリヤに対する謝罪の念も、その言葉に含まれています。人に対する罪はすべて、その人を愛しておられる主に対する罪でもあるのですから。彼の悔い改めの祈りは、詩篇51篇に詳しく記されています。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています(3)」「私は咎ある者として生まれました(5)」。そこに、いっさい言い訳や主張は含まれていません。そしてただ「ヒソプをもって私の罪を除いて清めて下さい(7)」と主の憐れみにすがっているのです。これこそが真の悔い改めなのです!
私たちの悔い改めは、いつの間にか自己弁護の祈りになっていないでしょうか?もう一度、一切の言い訳やパフォーマンスを棄てて、主の前に「砕かれた霊」をもって祈ろうではありませんか?その時、十字架の血潮が私たちをすべての罪から聖めます。そして失われた喜びがよみがえり、私たちは本当の意味で人生の再スタートを切ることができるのです。主はあなたの言葉や行いではなく、心に興味をもっておられます。
神へのいけにえは、砕かれた霊。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51篇16-17節)
ダビデの罪はウリヤの殺害でした。その原因は、姦淫(情欲)でした。ダビデはウリヤの妻バテシェバと関係をもち、彼女が身ごもると、それをもみ消そうとウリヤを殺害したのです。とはいっても、ダビデが直接手を下したのではなく、ウリヤを激戦の最前線に出し、間接的に「見殺し」にしたのです。確かに、間接的ではありましたが、首謀者はまぎれもなくダビデ本人です。聖書にはこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです(ヤコブ4:1-2)」。どうしてこうなってしまったのでしょう。どうしてもっと早く引き返せなかったのでしょうか?
それは罪によって、霊的に麻痺していたからです。ナタンが「金持ちと貧しい人のたとえ話」をした時、ダビデは「そんなことをした男は死刑だ」と烈火のごとく怒り始めました(5)。実は、これこそが霊的に破たんした者の姿なのです。聖書にはこうあります。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(ヤコブ1:15)」。罪の本当の恐ろしさは、罪の結果ひき起こされる「霊的な死」です。死人に感覚がないのと同様に、罪を放置しておくと、私たちの良心は麻痺していき、やがて悔い改めることさえできなくなっていくのです。そればかりか、それをカモフラージュするように、周りを訴え、神を訴えて孤立を深めて行くのです。
人は、なかなか自分の罪を認めようとしません。それどころか、周りの人々の悪意を取り上げては、アイツらの方がヒドイと騒いでみたり「誰がそんなことを告げ口した!?」と逆恨みしたり、また時には自分の生い立ちや環境のせいにしては、自分を犠牲者(可哀そうな人)にしたて上げてしまうのです。気を付けて下さい!カウンセリングだって一歩間違うと「自己正当化の道具」となってしまいます。罪の原因は色々あるでしょう。しかし、誰かのせいにしている限り、真の解決もないのです。ジョン・ホワイトはこう言います。「自分を守るのはやめなさい。我々が根本的に、罪深い者であるという事実をはっきり見つめ、無条件に受け入れ、完全に認めるまでは。神様の恵みも力を発揮することができないのです」。
「私は主に対して罪を犯した(13)」それがダビデの結論でした。もちろんウリヤに対する謝罪の念も、その言葉に含まれています。人に対する罪はすべて、その人を愛しておられる主に対する罪でもあるのですから。彼の悔い改めの祈りは、詩篇51篇に詳しく記されています。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています(3)」「私は咎ある者として生まれました(5)」。そこに、いっさい言い訳や主張は含まれていません。そしてただ「ヒソプをもって私の罪を除いて清めて下さい(7)」と主の憐れみにすがっているのです。これこそが真の悔い改めなのです!
私たちの悔い改めは、いつの間にか自己弁護の祈りになっていないでしょうか?もう一度、一切の言い訳やパフォーマンスを棄てて、主の前に「砕かれた霊」をもって祈ろうではありませんか?その時、十字架の血潮が私たちをすべての罪から聖めます。そして失われた喜びがよみがえり、私たちは本当の意味で人生の再スタートを切ることができるのです。主はあなたの言葉や行いではなく、心に興味をもっておられます。
神へのいけにえは、砕かれた霊。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51篇16-17節)
「モーセ 破れ口に立つ祈り」 出エジプト32章1-35節
今日の箇所の冒頭で、イスラエルの民はこう叫びます。「さあ私たちに先立っていく神を造ってください」。彼らはシナイ山に登ったまま帰ってこないモーセに不信感を募らせ、自分たちにとって都合のよい偶像を造ってくれと哀願したのです。エジプトから救い出し、紅海を分け、雲と火の柱をもって導かれた神様を、いとも簡単に、自分たちの都合のよい、ちっぽけな偶像にしてしまったのです。
でも、同じことを私たちもしていないでしょうか?私たちも真の神様を、自分たちにとって都合のよい「神様」にしていないでしょうか?「神様はどんな罪でも見逃すべきだと」「偏狭(へんきょう)な神様は、今どきはやらない」「神様は私たちを、どこまでも愛し、赦してくれる方なんでしょ?」誤解しないでください。神様は、確かに愛なのです(Ⅰヨハネ4:8)。でもその愛が、いつの間にか薄っぺらな、ヒューマニズム(人間中心)的な「愛」になってはいないでしょうか?もし私たちが神様を、まるで着せ替え人形のように、自分の都合のよい存在に仕立て上げてしまうなら、それもまた「偶像(金の子牛)」なのではないでしょうか。
今日の箇所では、偶像礼拝の罪のために、3000人が倒れました。ある人は言うかもしれません。「あんまりじゃないですか?神様はそんなに残酷な方なのでしょうか」?そんな人に対して、ジョン・ホワイトはこう言います。「これも聖書の一部なのです。あなたのビジョンはゆがめられ、価値観は汚れています。あなたの意志の中へ御言葉を深く沈めるときのみ(聖書をもう一度開かれた心で読んでみるときにのみ)罪の本当の恐ろしさを知ることができます。神様の見方で罪を見つめるまでは、とりなしの祈りの緊急性を体験することはできません」。私たちがどんなに勝手な「神様」を造り出そうとも、真の神様は変わらないのです。
その神様の目に、今の世界はどのように映っているでしょうか。人々は自分の欲望を神としてあがめ、神を神とせず、自分勝手な道を歩んでいます。ある者は神を無視し、ある者は神をののしり、ある者は神の存在さえ認めません。私たちは、そのような時代に生かされているのです。この時代にあって、私たちはただ「私たちの教会を祝して下さい」「家族を守ってください」もしくは「彼らのように罪深くないことを感謝します」とだけ祈っていても良いのでしょうか?いま最も求められるのは、この時代の破れ口にたって真剣に祈る人ではないでしょうか?
モーセは主に嘆願して祈りました(11)。「あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民への災いを思いなおして下さい(12)」。そしてこうとも祈りました。「今もし彼らの罪をお赦しくだされるものなら…。しかし、もしもかないませんなら、どうかあなたがお書きになったあなたの書物から私の名を消し去ってください(32)」。考えてもみれば、驚きの祈りです。彼らは、都合の良い時にはモーセを持ち上げるくせに、都合が悪くなればすぐに不平を鳴らし、反逆してくる、悩みの種のような存在でした。今回の件だって、考えてもみれば彼らの自業自得です。なのに、その彼らの救いのためだったら、自分が神様に見捨てられてもいいというのです。
私たちの祈りは、いつの間にか自己満足の祈りになっていないでしょうか?だからといって、この祈りを安易にマネすることは危険です。本来なら「良い子は、絶対マネしないでね」とのテロップを付けたいぐらいです。また「そんな名前、別に消されたっていいし…」と思っているのであったら、その祈りはかえって災いとなります。◆でも、このような気持ちで、友のために、家族のために、そして国のために真剣に祈ることは、クリスチャンとしての責任ではないでしょうか?だって、私たちクリスチャンは、イエス様の捨て身のとりなし(十字架)によって贖われたのですから。もしクリスチャンが真剣に祈るなら、この国は変わります。そして世界は変わるのです。
三時ごろ、イエスは大声で、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。
これは、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味である。
(マタイ27章46節)
でも、同じことを私たちもしていないでしょうか?私たちも真の神様を、自分たちにとって都合のよい「神様」にしていないでしょうか?「神様はどんな罪でも見逃すべきだと」「偏狭(へんきょう)な神様は、今どきはやらない」「神様は私たちを、どこまでも愛し、赦してくれる方なんでしょ?」誤解しないでください。神様は、確かに愛なのです(Ⅰヨハネ4:8)。でもその愛が、いつの間にか薄っぺらな、ヒューマニズム(人間中心)的な「愛」になってはいないでしょうか?もし私たちが神様を、まるで着せ替え人形のように、自分の都合のよい存在に仕立て上げてしまうなら、それもまた「偶像(金の子牛)」なのではないでしょうか。
今日の箇所では、偶像礼拝の罪のために、3000人が倒れました。ある人は言うかもしれません。「あんまりじゃないですか?神様はそんなに残酷な方なのでしょうか」?そんな人に対して、ジョン・ホワイトはこう言います。「これも聖書の一部なのです。あなたのビジョンはゆがめられ、価値観は汚れています。あなたの意志の中へ御言葉を深く沈めるときのみ(聖書をもう一度開かれた心で読んでみるときにのみ)罪の本当の恐ろしさを知ることができます。神様の見方で罪を見つめるまでは、とりなしの祈りの緊急性を体験することはできません」。私たちがどんなに勝手な「神様」を造り出そうとも、真の神様は変わらないのです。
その神様の目に、今の世界はどのように映っているでしょうか。人々は自分の欲望を神としてあがめ、神を神とせず、自分勝手な道を歩んでいます。ある者は神を無視し、ある者は神をののしり、ある者は神の存在さえ認めません。私たちは、そのような時代に生かされているのです。この時代にあって、私たちはただ「私たちの教会を祝して下さい」「家族を守ってください」もしくは「彼らのように罪深くないことを感謝します」とだけ祈っていても良いのでしょうか?いま最も求められるのは、この時代の破れ口にたって真剣に祈る人ではないでしょうか?
モーセは主に嘆願して祈りました(11)。「あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民への災いを思いなおして下さい(12)」。そしてこうとも祈りました。「今もし彼らの罪をお赦しくだされるものなら…。しかし、もしもかないませんなら、どうかあなたがお書きになったあなたの書物から私の名を消し去ってください(32)」。考えてもみれば、驚きの祈りです。彼らは、都合の良い時にはモーセを持ち上げるくせに、都合が悪くなればすぐに不平を鳴らし、反逆してくる、悩みの種のような存在でした。今回の件だって、考えてもみれば彼らの自業自得です。なのに、その彼らの救いのためだったら、自分が神様に見捨てられてもいいというのです。
私たちの祈りは、いつの間にか自己満足の祈りになっていないでしょうか?だからといって、この祈りを安易にマネすることは危険です。本来なら「良い子は、絶対マネしないでね」とのテロップを付けたいぐらいです。また「そんな名前、別に消されたっていいし…」と思っているのであったら、その祈りはかえって災いとなります。◆でも、このような気持ちで、友のために、家族のために、そして国のために真剣に祈ることは、クリスチャンとしての責任ではないでしょうか?だって、私たちクリスチャンは、イエス様の捨て身のとりなし(十字架)によって贖われたのですから。もしクリスチャンが真剣に祈るなら、この国は変わります。そして世界は変わるのです。
三時ごろ、イエスは大声で、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。
これは、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味である。
(マタイ27章46節)
2010年9月17日金曜日
「ヤコブ 自分中心から神中心への祈り」 創世記32章6-32節
「人は試練の時どう祈るか?」シリーズの二回目ですが、今回はヤコブの生涯から学びたいと思います。時に、私たちの人生には、大きな危機が襲ってきます。そこで重要なのは、私たちがそれとどう向き合い、乗り越えていくかです。なぜならそれによって、その危機が「益(それからの人生の肥やし・祝福)」となるのか、それとも単なる「災難」に終わってしまうのかが決まってくるからです。
ヤコブの人生の危機、それはエサウとの再会でした(32章)。その時ヤコブは「非常に恐れ、心配(7)」していました。なぜなら二人の間には、長い確執がそのまま残っていたからです。父イサクの臨終の直前、イサクが特別な祝福の祈りをさずけるときのことです、ヤコブは母リベカと結託して、長子の権利をエサウから騙し取ってしまったのです(27章)。エサウは怒り狂い、ヤコブを殺そうと思いました(27:41)。しかしエサウにも非がなかったわけではありません。彼は「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売って」しまったのです(ヘブル 12:16)。聖書はこのようなエサウの態度を「俗悪」と戒めています。
ヤコブには、神様の祝福に対する飽くなき渇望(かつぼう)がありました。彼はエサウのように、それを何か他のモノと交換しようとは思いませんでした。それどころか、相手を騙してでも、それを自分のものにしたいと思ったのです。前回の表現を借りるなら、生まれた時から「兄が弟に仕える(25:23)」というのは、神様によって「既に定められた御心」でした。しかし、このような不正な手段によって、祝福を奪い取るというのは「主の望まれた御心」ではなかったのです。事実このことによって、彼は長い間、人間関係の「ねじれ」を経験するのでした。彼の祝福に対する激しい渇望は、良いところでもあり、同時に弱点でもありました。
ヤコブという名前には「押しのける(27:36)」という意味があります。「押しのける」には「力づくで、他を排除する」という意味がありますが、彼の人生は、まさしくそのように「力づくで、他を排斥し、祝福を奪い去るような人生」でした。エサウの件はもちろん、ラバンのもとでも、自分の「知恵と力(策略)」によって、試練を切り抜け、祝福を得てきました(30章)。そして今回も、彼は自分の持ち物を、二つの宿営に分け、さらに家畜をいくつかの群れに分けて、贈り物の波状攻撃によってエサウの心をなだめようとしたのです。これもまた彼の策略でした。
そんな時です。ヤコブが神と格闘したのは。一見それはヤコブの勝利で終わっているように書かれています。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ(28)」。しかし本当にそうでしょうか?聖書には時々逆説的な表現が登場しますが、ここでも実際は、ヤコブのもものつがいが外されており(25)びっこをひくようになりました。これは、彼の体だけでなく、自我が砕かれたということです。その証拠に彼の名前はイスラエル(神が戦われる)と変えられました。自分により頼む人生から「戦ってくださる神様」に信頼する新しい人生に入れられたのです。これこそ真の勝利です。
ヤコブの格闘から、祈りに不可欠な二つの要素を知ることができます。ひとつは粘り強さです。ヤコブがこう言っています。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ(26)」。この祝福への渇望が大切なのです。しかしそれは、神様でも熱心によって祈り倒せるという意味ではありません。◆祈りの中で私たちの祈りは変えられていきます。最初は自分のことしか見えていなくても、祈りの中で徐々に周りが見えてきて、神様のみこころが見えてくるのです。すると最終的に自我が砕かれ、私たちのために戦ってくださる神様にゆだねる信仰が芽生えるのです。反対に言えば、そこまで「粘り強く祈りなさい(神様と格闘しなさい)」ということなのです。
その人は言った。
「あなたの名は何というのか。」
彼は答えた。「ヤコブです。」
その人は言った。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。
イスラエルだ。
あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
(32:27-28)
ヤコブの人生の危機、それはエサウとの再会でした(32章)。その時ヤコブは「非常に恐れ、心配(7)」していました。なぜなら二人の間には、長い確執がそのまま残っていたからです。父イサクの臨終の直前、イサクが特別な祝福の祈りをさずけるときのことです、ヤコブは母リベカと結託して、長子の権利をエサウから騙し取ってしまったのです(27章)。エサウは怒り狂い、ヤコブを殺そうと思いました(27:41)。しかしエサウにも非がなかったわけではありません。彼は「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売って」しまったのです(ヘブル 12:16)。聖書はこのようなエサウの態度を「俗悪」と戒めています。
ヤコブには、神様の祝福に対する飽くなき渇望(かつぼう)がありました。彼はエサウのように、それを何か他のモノと交換しようとは思いませんでした。それどころか、相手を騙してでも、それを自分のものにしたいと思ったのです。前回の表現を借りるなら、生まれた時から「兄が弟に仕える(25:23)」というのは、神様によって「既に定められた御心」でした。しかし、このような不正な手段によって、祝福を奪い取るというのは「主の望まれた御心」ではなかったのです。事実このことによって、彼は長い間、人間関係の「ねじれ」を経験するのでした。彼の祝福に対する激しい渇望は、良いところでもあり、同時に弱点でもありました。
ヤコブという名前には「押しのける(27:36)」という意味があります。「押しのける」には「力づくで、他を排除する」という意味がありますが、彼の人生は、まさしくそのように「力づくで、他を排斥し、祝福を奪い去るような人生」でした。エサウの件はもちろん、ラバンのもとでも、自分の「知恵と力(策略)」によって、試練を切り抜け、祝福を得てきました(30章)。そして今回も、彼は自分の持ち物を、二つの宿営に分け、さらに家畜をいくつかの群れに分けて、贈り物の波状攻撃によってエサウの心をなだめようとしたのです。これもまた彼の策略でした。
そんな時です。ヤコブが神と格闘したのは。一見それはヤコブの勝利で終わっているように書かれています。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ(28)」。しかし本当にそうでしょうか?聖書には時々逆説的な表現が登場しますが、ここでも実際は、ヤコブのもものつがいが外されており(25)びっこをひくようになりました。これは、彼の体だけでなく、自我が砕かれたということです。その証拠に彼の名前はイスラエル(神が戦われる)と変えられました。自分により頼む人生から「戦ってくださる神様」に信頼する新しい人生に入れられたのです。これこそ真の勝利です。
ヤコブの格闘から、祈りに不可欠な二つの要素を知ることができます。ひとつは粘り強さです。ヤコブがこう言っています。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ(26)」。この祝福への渇望が大切なのです。しかしそれは、神様でも熱心によって祈り倒せるという意味ではありません。◆祈りの中で私たちの祈りは変えられていきます。最初は自分のことしか見えていなくても、祈りの中で徐々に周りが見えてきて、神様のみこころが見えてくるのです。すると最終的に自我が砕かれ、私たちのために戦ってくださる神様にゆだねる信仰が芽生えるのです。反対に言えば、そこまで「粘り強く祈りなさい(神様と格闘しなさい)」ということなのです。
その人は言った。
「あなたの名は何というのか。」
彼は答えた。「ヤコブです。」
その人は言った。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。
イスラエルだ。
あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
(32:27-28)
「アブラハム 友としての祈り」 創世記18章16-33節
夏休みを終え、聖書研究祈祷会を再開いたします。新しい学びのテーマは「人は試練の時どう祈るか」です。これはジョン・ホワイト著の「人は試練の時、どう祈るか」(いのちのことば社)を参考にしながら、教会のコンテキスト(文脈)に即し、まとめられたものです。学びの内容としては「試練」の時だけではなくて、人生の「転機」や「危機」の時にどう祈るのかを、学んでいきたいと思います。最初に取り上げるのは、信仰の父とも呼ばれている、アブラハムの祈りです。
ある日アブラハムのもとに3人の人が現れました(18:2)。それが現実の人か、それとも単なる幻であったのかどうかは、私たちにはわかりませんが、アブラハムとその妻サラは、現実に彼らを見、言葉を交わしています。その中の一人は、途中から「主」と呼ばれています(13)。ということは、残りの二人は御使いでしょうか。彼らの使命は大きく分けて二つ。一つはアブラハムとサラに「来年の今頃、男の子ができている(10)」ということを告げるため、そしてもう一つは「アブラハムの甥のロトが住んでいるソドムとゴモラの町」の行く末を告げることでした。
そこで主は一つのことを悩まれます。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか(17)」。良く考えてみると不思議な悩みです。「主」とは、私たち人類と全宇宙を造られた「創造主」のことです。私たちは「被造物」であり、私たちと主との間には超えることのできない一線があります。でも、その主が「ご自身が考えておられることを、私たち人間にも分かち合うべきかを悩まれている」のです。そんなこと悩まずに、主権者として、私たちとは関係なく、ご自分の決められたことを、そのまま行えばよいのではないでしょうか?でもそうではないのです、主は、私たちに御心を分かち合いたいと願われているのです。
それは私たちが神の友であるからです。聖書にはこう書かれています。「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた、という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです(ヤコブ2:23)」。でもある人は言うかもしれません。「アブラハムはそうかもしれないけど、私は違います。彼は特別な人ですから」。でも本当にそうでしょうか?聖書にはこうとも書かれています。「わたし(イエス・キリスト)はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)」。
その上で、神様は、その友(わたしたち)の率直な意見を聞きたいと望まれています。聖書の中には、大きく分けて二つの「御心」が存在します。一つは既に定まっている御心で、例えば「主の再臨とその時期」など、私たちには隠されている事柄です(マタイ24:36)。でもその他に、主が私たちの参与を積極的に求められる、もう一つの「御心」が存在するのです。イエス様も良く「彼らの信仰をみて(マタイ9:2)」と言われたではありませんか。ソドムとゴモラのことについても、アブラハムは主に率直に語りかけて(食らいついて)います。そう考えると私たちの祈りも変わってくるのではないでしょうか?少なくとも「(消極的な意味で)御心のままに」と、他人事のように祈ることはなくなるのではないでしょうか?
神の友として、まずあなたは主の言葉に耳を傾けていますか?自分のことばかりを話す友はいません。良い友はまず相手の言葉に耳を傾けるものです。そして、相手の悲しみを自分の悲しみとし、喜びを自分の喜びとするのです。◆その上で、率直に語ることも重要です。「なれなれしく語る」ことではありません!アブラハムも「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください(27)」と語っています。畏れを保ちつつ、思いと願いを率直かつ熱心に祈ることが大切なのです。
わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、
あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)
ある日アブラハムのもとに3人の人が現れました(18:2)。それが現実の人か、それとも単なる幻であったのかどうかは、私たちにはわかりませんが、アブラハムとその妻サラは、現実に彼らを見、言葉を交わしています。その中の一人は、途中から「主」と呼ばれています(13)。ということは、残りの二人は御使いでしょうか。彼らの使命は大きく分けて二つ。一つはアブラハムとサラに「来年の今頃、男の子ができている(10)」ということを告げるため、そしてもう一つは「アブラハムの甥のロトが住んでいるソドムとゴモラの町」の行く末を告げることでした。
そこで主は一つのことを悩まれます。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか(17)」。良く考えてみると不思議な悩みです。「主」とは、私たち人類と全宇宙を造られた「創造主」のことです。私たちは「被造物」であり、私たちと主との間には超えることのできない一線があります。でも、その主が「ご自身が考えておられることを、私たち人間にも分かち合うべきかを悩まれている」のです。そんなこと悩まずに、主権者として、私たちとは関係なく、ご自分の決められたことを、そのまま行えばよいのではないでしょうか?でもそうではないのです、主は、私たちに御心を分かち合いたいと願われているのです。
それは私たちが神の友であるからです。聖書にはこう書かれています。「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた、という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです(ヤコブ2:23)」。でもある人は言うかもしれません。「アブラハムはそうかもしれないけど、私は違います。彼は特別な人ですから」。でも本当にそうでしょうか?聖書にはこうとも書かれています。「わたし(イエス・キリスト)はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)」。
その上で、神様は、その友(わたしたち)の率直な意見を聞きたいと望まれています。聖書の中には、大きく分けて二つの「御心」が存在します。一つは既に定まっている御心で、例えば「主の再臨とその時期」など、私たちには隠されている事柄です(マタイ24:36)。でもその他に、主が私たちの参与を積極的に求められる、もう一つの「御心」が存在するのです。イエス様も良く「彼らの信仰をみて(マタイ9:2)」と言われたではありませんか。ソドムとゴモラのことについても、アブラハムは主に率直に語りかけて(食らいついて)います。そう考えると私たちの祈りも変わってくるのではないでしょうか?少なくとも「(消極的な意味で)御心のままに」と、他人事のように祈ることはなくなるのではないでしょうか?
神の友として、まずあなたは主の言葉に耳を傾けていますか?自分のことばかりを話す友はいません。良い友はまず相手の言葉に耳を傾けるものです。そして、相手の悲しみを自分の悲しみとし、喜びを自分の喜びとするのです。◆その上で、率直に語ることも重要です。「なれなれしく語る」ことではありません!アブラハムも「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください(27)」と語っています。畏れを保ちつつ、思いと願いを率直かつ熱心に祈ることが大切なのです。
わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、
あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)
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