2010年11月18日木曜日

「パウロ 心の目がはっきり見えるように」 エペソ1章15-23章

「人は試練の時、どう祈るか」というテーマのもとに学びを続けていますが、今回と次回の二回にわたって、エペソ書に記されているパウロの祈りからともに教えられたいと思います。ジョン・ホワイトによれば、このエペソ書の中心は「パウロの祈り」だそうです。しかもこのエペソ書を書いた時、パウロは投獄されていました。まさしく試練の中の祈りです。彼は、獄中で何を祈ったのでしょうか?

最初に祈られているのは「感謝」でした。パウロはこういいます。「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています(15-16)」。驚きではないでしょうか?多くの場合、私たちは逆のことをしています。試練の中で自分のことばかりを祈り、兄弟姉妹に対しては何の感謝もなく、むしろ不平不満があるのです。与えられていることよりも、与えられていないことに目をとめ、ますます落胆するのです。でもパウロは試練の中でこそ、人のために祈り、「絶えず」「感謝をささげ」ています。私たちの心の目は、あまりにも、すでに与えられている恵みに対して、盲目なのではないでしょうか?

だからパウロは、私たちの「目がはっきり見えるように」祈られました。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように(18-19)」。私たちには、既に「天国の遺産」が与えられています。問題は、私たちがそのことに気付かず、いぜんとして貧しい者のように歩んでいることなのです。与えられている「聖徒の望み」も「栄光」も「全能の力」も、眠ったままではないでしょうか?それらは「知恵と啓示の御霊(17)」によって悟ることのできる事柄です。

ない物ねだりはもう止めて、与えられている恵みに感謝しなさい。日々の祈りの中でも、与えられていないものではなく与えられている恵みに目を開いてくださいと祈ることができますように。詩篇119篇18節にはこうあります。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」。もしも私たちの心の目が開かれるなら、日常生活も教会生活も180度変えられてしまいます。時に私たちは、自分はいったい何者なのか、キリストの十字架にどれほど変えられたのか、キリストのからだである教会に加えられたことがどれほど大きな恵みなのか、あまりにも分かっていないのです。

正しい認識が、正しい結果を生み出します。イエス様もそうでした。「なんだイエスか、ヨセフの息子じゃないか」とあなどり、何の期待もされなかった故郷では、あのイエス様でさえ何一つ奇跡を行うことができませんでした(マルコ6章)。教会に対しても同じです。「なんだ教会か?良く知っているよ。そして何の期待もしない」そういう人が集まる教会では、実際に何も起こらないでしょう。しかし、私たちの心の目が、教会本来の姿に開かれ、そこに全幅の信頼と期待を寄せるなら、イエス様もその教会では自由に働くことができるのです。教会とは何でしょうか?栄光の主、イエス・キリストの満ち溢れるところではありませんか!人がどう見ようとかまいません。クリスチャンがこの信仰に立つことが大切なのです。

あなたの心の目は、はっきり見えていますか?見なくても良いものを一生懸命見ていて、本当に見なければいけないものに目が閉じられているということはないでしょうか?◆あなたはもう既に救われ「栄光の富」をいただいているのです。そればかりか教会の一員となり、イエスキリストのいのちに預かる者となったのです。問題は、もう美しい白鳥なのに、自分をまだ醜いあひるの子だと思い込んでいることなのです。

教会はキリストのからだであり、
いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。
(エペソ1章23節)

2010年11月13日土曜日

「ヨブ:神への恐れ(畏れ)」 ヨブ記1章、42章

前回私たちは「畏れと情熱を伴った祈り」について学びました。ウザが、神の箱の転倒を防ごうと手を伸ばしたことは確かに「善意」からでしたが、「神の箱を自分が守らないと」と思う傲慢であったことを教えられました。彼は長い間ずっと、自分の家に神の箱があり、一緒に過ごすことによって、その存在に慣れ切っていたのかもしれません。神様をよく知っていることと、神様を畏れることは違います。神様の前に正しく歩んでいることと、本当に神様を畏れて歩んでいることは違います。一体どういうことなのでしょう。

ヨブは正しい人でした。ヨブ記の一番最初に、そのことが記されています。「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた(1:1)」。しかもそれは、「自分の息子があるいは罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思い、未然の罪まで聖別するほどの徹底ぶりでした。サタンが彼に手を伸ばし、家族と財産の全部を打った時も、彼は決して神に愚痴をこぼさず「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:21)」と主を賛美するのでした。

しかしそんな彼にも、危(あや)うさがありました。ヨブは自分の身の潔白を再三にわたって、訴えているのですが、ジョン・ホワイトはこういっています。「彼のあまりの頑固さが、自分を正当化し、できたら神様にもそれを認めさせようとする危険性をもっていたのです」。もちろん誰にも彼を責める資格はありません。もしヨブの悲劇をこうむったなら、誰がそれに耐えられるでしょうか?ヨブの友人は、そんな態度を傲慢と受け止めて、彼を責めました。でも結果的に彼らの方が、神様に戒められています(42:7)。正しい知識を並べても、そこに愛がないなら、何の値打もないのです。黙っていた方がましです。単なる知識は人を傷つけます。

同じことがヨブに対しても言えます。理解しにくいことかもしれませんが、たとえ自分が正しくて、潔白であっても、神様に対して口答えする資格は私たちにはありません。理由は…、私も考えてみましたが、なかなか説明が見つかりません。答えはただ一つ、「神様が神様であるから」なのです。ヨブも、この神様の偉大さに触れた時、こういう他ありませんでした。「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません(40:4-5)」。

沈黙もまた、祈りです。それは強情から来る沈黙ではありません。また、ただ神様が怖くて、震えている沈黙でもありません。大きな神様の臨在の前に、言葉を超えた深い交わり(畏れ)が生まれるからです。聖書にはこうあります。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て(詩131)」。祈り込んでいくと、目の前にふと、そういった「静寂」が広がっているのです。

こんな言葉を読みました。「ぶんぶんと、動く小枝に、小鳥はとまれない。主の祝福も、主を待ち望まない者にはとまれない」。時に私たちも、なんとか自分で解決しようと、なかなか静まれない時があります。すると、ますます言葉数が多くなり、ますます問題がこんがらがってくるのです。◆静まりなさい。人と格闘するのではなく、主の前に静まって、主と格闘しなさい。すると沈黙のうちに主が答えを与えて下さいます。理屈は本当の解決ではありません。主の臨在こそが、最終的な答えなのです。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。(42:5)
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。(42:6)