2011年1月4日火曜日

「イエス様 彼らをお赦しください」 マルコ14章32-42章

今回で「人は試練の時どう祈るか」の学びも終わりとなります。そして今日で、今年の聖書研究祈祷会も終わりとなります。この一年間、皆さんも上にも色々な事が起こったでしょう。その中には、感謝な出来事もあれば、傷ついたり、苦しかった事もあるかもしれません。そういったことをも、もう一度、御言葉の光のもとに出しながら、今日学ぶのは「父よ、彼らをお赦しください」との祈りです。

ゴルゴダの丘で、彼らはイエス様を十字架につけました。手と足には五寸釘、両脇には犯罪人、そして足下には自分の着物を分けあう人々です。想像してみてください。自分はまだ生きているのに、自分の着物を奪い合っているのです。まさに死肉に群がるハイエナのようです。まともな感覚の持ち主だったら「何で俺をこんな目にあわせるんだ、俺が何をした!」と半狂乱になってもおかしくはないと思います。でもイエス様は沈黙しておられました。そればかりか直前では、泣く女性たちを気遣われ「エルサレムの娘たち。わたしの事で泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子供のことで泣きなさい(28)」と声をかけられたのです。

耐え難い、肉体的苦痛、そして精神的苦痛です。十字架が、丘の上の穴にドスンと差し込まれた時、その勢いで手足に全体重がかかり、傷口が無残にも裂けたことでしょう。また、鉛のついた鞭で激しく打たれ背中は、皮も肉もそぎ取られ、そこから血と水分が急速に失われ、意識はもうろうとしていたことでしょう。しかし、そういった中でもはっきり聞こえてくる、鳴りやまぬ、罵声と、罵り、非難と、中傷。そういった過酷な状況の中で、イエス様はこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(34)」。

苦しみの中で、私たちの目の前には、二つの誘惑が大きく口を開けています。一つは「自己憐憫」です。自分の苦しみに目をとめ、悲哀(ひあい)にくれ、ひとりでも多くの人に自分の苦しみを知らせ、自分のために泣いてくれる人を探すのです。もう一つは「憎しみ」です。自分の正義を主張し、自分をこんな目にあわせた人を恨み、どうしたら復讐できるものかと、思いめぐらすのです。でもイエス様は、どちらの誘惑にも飲み込まれませんでした。イエス様は、ただ「赦し」を祈られたのです。これを「イエス様だから」と片付けるのではなく、赦された者の一人として、同じように祈ることが大切なのではないでしょうか?簡単なことではありません。許そうと向き合えば、苦々しい感情が噴き出してくることもあります。

自分の感情と戦ってはいけません。ジョンホワイトはこう書きます。「あなたは誰かに対して批判的になっていますか?…もしもあなたが不正にあい、怒っているいのなら、間違いなくあなたの非難の気持ちには憎しみが混じり合っています。非難と憎悪です。もちろん、あなたがクリスチャンなら(しかも真面目なクリスチャンなら)、許さなければいけないことをよく承知しているでしょう。しかし相手が相変わらず状況を悪化させていたり、繰り返し、あなたの苦痛を増し加えていたりするならば、許すことができるでしょうか。無理なのです(P182 意訳)」。

でも私たちには「父の赦し」を祈ることはできるのです。自分の力で許すのではありません。問題をもっと高いレベルに引き上げ、父の手にゆだねるのです。「父よ、彼を赦して下さい。あなたは私の罪を赦して下さいました。そして多くの罪人を赦し、生まれ変わらせてくださいました。彼は今、自分で何をしているのか分からないのです」。あなた自身は許さなくてもいいと言っているのではありません。赦しと許しは表裏一体です(主の祈り)。ただ時間がかかるのです。父の赦しを何度も祈ることで、私たちの心もその愛によって溶かされ、少しずつ許す者へと変えられていくのです。

そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ。彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか
自分でわからないのです。」
彼らは、くじを引いて、
イエスの着物を分けた。
(マルコ14章34節)

「イエス様 しかし御心のままを」 マルコ14章32-42章

私たちは今まで「人は試練の時どう祈るか」というテーマで学んできましたが、いよいよ今回を含めて、残すところ2回となりました。今回学ぶのは「ゲツセマネの祈り」。この祈りを語らずして、試練の中の祈りを語ることはできません。マルコ福音書には書かれていませんが、ルカ福音書には「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた(22:44)」とも記されています。その壮絶な祈りの全貌を、ともに読み進めて行きましょう。

ゲツセマネの祈りの直前、ペテロとイエス様の会話が記されています。ペテロは力を込めてこう言いました。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません(31)」。でもその結果は、皆さんもご存じのとおりです。彼は三度も「イエス様を知らない」と否認してしまったのです。彼の熱心さは、霊的なものではなく、肉的なものでした。「俺様は絶対にそんなことしない」とも聞こえます。でもイエス様は言われました。「心は燃えていても、肉体は弱いのです(38)」。十字架の道は、いってみるなら、濁流の川のようなものです。ペテロのように、どんなに勇ましく飛び込んでも決して渡れないのです。その川は、ただ「祈り」によってしか渡れないのです。

イエス様はゲツセマネで、弟子たちにもともに祈るようお願いされました。今日の箇所には「わたしが祈る間、ここに座っていなさい(32)」としか書かれていませんが、もちろんそれは、ともに祈っていなさいという意味でもあります。当然、イエス様は、まことの神ですから、人からのとりなしは必要とされません。でもイエス様はこれから、人の罪を背負い、父なる神(アバ父)との完全な断絶を味わおうとしているのです。その瞬間、神の子としての栄光は消え失せ、ひとりの人として闇に飲み込まれようとしているのです。特に親しい信仰の友(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)にも、一緒に祈ってほしいと思うのは当然ではないでしょうか。

「あなたの無関心によって、声なき叫びをあげている人はいないでしょうか?」先日ラジオを聞いていたら、そんな公共広告が流れてきました。イエス様でさえ、友からの祈りの支援(とりなし)を必要とされました。だとしたら私たちは、尚更の事ではないでしょうか?あなたには、いざという時、祈りの要請をできる「とりなしのグループ」があるでしょうか?またあなたの周りには、あなたの祈りを必要としている人はいないでしょうか?もしかしたら、苦しみもだえる人の目と鼻の先で、私たちも弟子たちのように、呑気に眠りこけているのかもしれません。

イエス様は、苦しみもだえ始められました(34)。有名な祈りです。「アバ父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください(36)」。ここから、祈りとは何かを知ることができます。それは、自分の願いを神様に押し付けることではなく、むしろ自分の願いを、神様のみこころに一致させるための大切な過程だということを。もしかしたら、血の汗を流すほど苦しい事かもしれない。でもその先に、本当の勝利があるのです。

「もう十分です」。私は長い間、イエス様が何回言っても眠りこける弟子たちにうんざりされたから「もう十分だ!」と言われたのだと思っていました。でも違いました。この言葉には「もうこれでいい(もはや葛藤はなくなりました)」との意味があるそうです。イエス様は十字架の上で勝利を取られましたが、その勝敗は、このゲツセマネで決まっていたのです。◆私たちも同じです。勝負は、家を出る前の、密室の祈りで決まるのです。あなたのゲツセマネはどこですか?そこが「人生の主戦場」です。

まだ眠って休んでいるのですか。
もう十分です。時が来ました。
見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行くのです。
(マルコ14章41-42節)

「パウロ 愛を知ることができますように」 エペソ3章14-21章

「パウロ:愛を知ることができますように」 エペソ3章14-21章
前回に引き続き「エペソ人への手紙」から「試練の時の祈り」について教えられたいと思います。パウロは1章で「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか…知ることができるように(18‐19)」と祈りました。試練の時に大切なのは、ない物ねだりをすることではなく、既に与えられている「恵み」に心の目が開かれることだったのです。今日はその続きです。

あらためてパウロは、ひざをかがめて、父の御前で祈ります(14-15)。なぜ祈るのか?それは天の父こそが「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方(20)」だからです。私たちは、そのことを本当に信じているでしょうか?たとえ八方ふさがりでも、万策(ばんさく)尽きたように見えても、まだ希望が残されていることを。今も生きて働かれる神様にこそ本当の希望があります。ひざをかがめて祈るとは、神様の御前に自分を空しくすることです。単なるポーズではなく、心の姿勢が問われています。そこからすべてが始まる。そこから神様の栄光が見えてくるのです!

どうか天の父が、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように(16)。よく、「しっかり愛された人の心は折れにくい」といいます。だから親の愛は大切だと。でも人の与える愛は完全ではありません。親の愛であっても…です。だから私たちは神様の愛に「深く根差し」そこに「基礎を置く」必要があるのです(17)。パウロはこう祈ります。「(どうか、その愛の)広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように(18-19)」。でも、どこか抽象的です。愛は目に見えないのでしょうがないのですが、もっと具体的に言えないのでしょうか?そういえば、この祈りの最初は「こういうわけで」という言葉で始まっています。

パウロの確信は、どうしようもない自分が、一方的な恵みによって救われたことです。2章にはこうあります。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、共によみがえらせ、ともに天のところに座らせてくださいました (3-6)」。また3章でも。「すべての聖徒たちのうちで一番小さなわたしに、この恵みが与えられた(8)」と告白しています。この十字架の恵みに根差すことが大切で、この十字架の恵みをますます深く理解するときに、どんな試練の中でも決して折れない心が与えられるのです。

他のどこかに解決があるのではありません。キョロキョロするのを止め、十字架の愛にしっかりとどまり、この愛に根を張ることができますように。その時キリストの愛が私たちの人生全体に流れ始め、私たちは「神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされる(成長させられる)」のです(19)。マラソンのQちゃんこと高橋尚子選手の座右の銘を思い出します。「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」。試練の時の祈りも、同じではないでしょうか?

あなたの人生は、何に根をおろしていますか?人は何に根をおろしているかによって、咲かせる花も決まってきます。十字架に根差す者の花からは、キリストの香りがします。そしてそういったクリスチャンの集まる教会を通して主の栄光が現れるのです!

また、あなたがたが
すべての聖なる者たちと共に、
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超える
この愛を知るようになり、
そしてついには、
神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。
(新共同訳3章18-19節)