2010年9月17日金曜日

「ヤコブ 自分中心から神中心への祈り」 創世記32章6-32節

「人は試練の時どう祈るか?」シリーズの二回目ですが、今回はヤコブの生涯から学びたいと思います。時に、私たちの人生には、大きな危機が襲ってきます。そこで重要なのは、私たちがそれとどう向き合い、乗り越えていくかです。なぜならそれによって、その危機が「益(それからの人生の肥やし・祝福)」となるのか、それとも単なる「災難」に終わってしまうのかが決まってくるからです。

ヤコブの人生の危機、それはエサウとの再会でした(32章)。その時ヤコブは「非常に恐れ、心配(7)」していました。なぜなら二人の間には、長い確執がそのまま残っていたからです。父イサクの臨終の直前、イサクが特別な祝福の祈りをさずけるときのことです、ヤコブは母リベカと結託して、長子の権利をエサウから騙し取ってしまったのです(27章)。エサウは怒り狂い、ヤコブを殺そうと思いました(27:41)。しかしエサウにも非がなかったわけではありません。彼は「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売って」しまったのです(ヘブル 12:16)。聖書はこのようなエサウの態度を「俗悪」と戒めています。

ヤコブには、神様の祝福に対する飽くなき渇望(かつぼう)がありました。彼はエサウのように、それを何か他のモノと交換しようとは思いませんでした。それどころか、相手を騙してでも、それを自分のものにしたいと思ったのです。前回の表現を借りるなら、生まれた時から「兄が弟に仕える(25:23)」というのは、神様によって「既に定められた御心」でした。しかし、このような不正な手段によって、祝福を奪い取るというのは「主の望まれた御心」ではなかったのです。事実このことによって、彼は長い間、人間関係の「ねじれ」を経験するのでした。彼の祝福に対する激しい渇望は、良いところでもあり、同時に弱点でもありました。

ヤコブという名前には「押しのける(27:36)」という意味があります。「押しのける」には「力づくで、他を排除する」という意味がありますが、彼の人生は、まさしくそのように「力づくで、他を排斥し、祝福を奪い去るような人生」でした。エサウの件はもちろん、ラバンのもとでも、自分の「知恵と力(策略)」によって、試練を切り抜け、祝福を得てきました(30章)。そして今回も、彼は自分の持ち物を、二つの宿営に分け、さらに家畜をいくつかの群れに分けて、贈り物の波状攻撃によってエサウの心をなだめようとしたのです。これもまた彼の策略でした。

そんな時です。ヤコブが神と格闘したのは。一見それはヤコブの勝利で終わっているように書かれています。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ(28)」。しかし本当にそうでしょうか?聖書には時々逆説的な表現が登場しますが、ここでも実際は、ヤコブのもものつがいが外されており(25)びっこをひくようになりました。これは、彼の体だけでなく、自我が砕かれたということです。その証拠に彼の名前はイスラエル(神が戦われる)と変えられました。自分により頼む人生から「戦ってくださる神様」に信頼する新しい人生に入れられたのです。これこそ真の勝利です。

ヤコブの格闘から、祈りに不可欠な二つの要素を知ることができます。ひとつは粘り強さです。ヤコブがこう言っています。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ(26)」。この祝福への渇望が大切なのです。しかしそれは、神様でも熱心によって祈り倒せるという意味ではありません。◆祈りの中で私たちの祈りは変えられていきます。最初は自分のことしか見えていなくても、祈りの中で徐々に周りが見えてきて、神様のみこころが見えてくるのです。すると最終的に自我が砕かれ、私たちのために戦ってくださる神様にゆだねる信仰が芽生えるのです。反対に言えば、そこまで「粘り強く祈りなさい(神様と格闘しなさい)」ということなのです。

その人は言った。
「あなたの名は何というのか。」
彼は答えた。「ヤコブです。」
その人は言った。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。
イスラエルだ。
あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
(32:27-28)

「アブラハム 友としての祈り」 創世記18章16-33節

夏休みを終え、聖書研究祈祷会を再開いたします。新しい学びのテーマは「人は試練の時どう祈るか」です。これはジョン・ホワイト著の「人は試練の時、どう祈るか」(いのちのことば社)を参考にしながら、教会のコンテキスト(文脈)に即し、まとめられたものです。学びの内容としては「試練」の時だけではなくて、人生の「転機」や「危機」の時にどう祈るのかを、学んでいきたいと思います。最初に取り上げるのは、信仰の父とも呼ばれている、アブラハムの祈りです。

ある日アブラハムのもとに3人の人が現れました(18:2)。それが現実の人か、それとも単なる幻であったのかどうかは、私たちにはわかりませんが、アブラハムとその妻サラは、現実に彼らを見、言葉を交わしています。その中の一人は、途中から「主」と呼ばれています(13)。ということは、残りの二人は御使いでしょうか。彼らの使命は大きく分けて二つ。一つはアブラハムとサラに「来年の今頃、男の子ができている(10)」ということを告げるため、そしてもう一つは「アブラハムの甥のロトが住んでいるソドムとゴモラの町」の行く末を告げることでした。

そこで主は一つのことを悩まれます。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか(17)」。良く考えてみると不思議な悩みです。「主」とは、私たち人類と全宇宙を造られた「創造主」のことです。私たちは「被造物」であり、私たちと主との間には超えることのできない一線があります。でも、その主が「ご自身が考えておられることを、私たち人間にも分かち合うべきかを悩まれている」のです。そんなこと悩まずに、主権者として、私たちとは関係なく、ご自分の決められたことを、そのまま行えばよいのではないでしょうか?でもそうではないのです、主は、私たちに御心を分かち合いたいと願われているのです。

それは私たちが神の友であるからです。聖書にはこう書かれています。「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた、という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです(ヤコブ2:23)」。でもある人は言うかもしれません。「アブラハムはそうかもしれないけど、私は違います。彼は特別な人ですから」。でも本当にそうでしょうか?聖書にはこうとも書かれています。「わたし(イエス・キリスト)はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)」。

その上で、神様は、その友(わたしたち)の率直な意見を聞きたいと望まれています。聖書の中には、大きく分けて二つの「御心」が存在します。一つは既に定まっている御心で、例えば「主の再臨とその時期」など、私たちには隠されている事柄です(マタイ24:36)。でもその他に、主が私たちの参与を積極的に求められる、もう一つの「御心」が存在するのです。イエス様も良く「彼らの信仰をみて(マタイ9:2)」と言われたではありませんか。ソドムとゴモラのことについても、アブラハムは主に率直に語りかけて(食らいついて)います。そう考えると私たちの祈りも変わってくるのではないでしょうか?少なくとも「(消極的な意味で)御心のままに」と、他人事のように祈ることはなくなるのではないでしょうか?

神の友として、まずあなたは主の言葉に耳を傾けていますか?自分のことばかりを話す友はいません。良い友はまず相手の言葉に耳を傾けるものです。そして、相手の悲しみを自分の悲しみとし、喜びを自分の喜びとするのです。◆その上で、率直に語ることも重要です。「なれなれしく語る」ことではありません!アブラハムも「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください(27)」と語っています。畏れを保ちつつ、思いと願いを率直かつ熱心に祈ることが大切なのです。

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、
あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)