2010年11月18日木曜日

「パウロ 心の目がはっきり見えるように」 エペソ1章15-23章

「人は試練の時、どう祈るか」というテーマのもとに学びを続けていますが、今回と次回の二回にわたって、エペソ書に記されているパウロの祈りからともに教えられたいと思います。ジョン・ホワイトによれば、このエペソ書の中心は「パウロの祈り」だそうです。しかもこのエペソ書を書いた時、パウロは投獄されていました。まさしく試練の中の祈りです。彼は、獄中で何を祈ったのでしょうか?

最初に祈られているのは「感謝」でした。パウロはこういいます。「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています(15-16)」。驚きではないでしょうか?多くの場合、私たちは逆のことをしています。試練の中で自分のことばかりを祈り、兄弟姉妹に対しては何の感謝もなく、むしろ不平不満があるのです。与えられていることよりも、与えられていないことに目をとめ、ますます落胆するのです。でもパウロは試練の中でこそ、人のために祈り、「絶えず」「感謝をささげ」ています。私たちの心の目は、あまりにも、すでに与えられている恵みに対して、盲目なのではないでしょうか?

だからパウロは、私たちの「目がはっきり見えるように」祈られました。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように(18-19)」。私たちには、既に「天国の遺産」が与えられています。問題は、私たちがそのことに気付かず、いぜんとして貧しい者のように歩んでいることなのです。与えられている「聖徒の望み」も「栄光」も「全能の力」も、眠ったままではないでしょうか?それらは「知恵と啓示の御霊(17)」によって悟ることのできる事柄です。

ない物ねだりはもう止めて、与えられている恵みに感謝しなさい。日々の祈りの中でも、与えられていないものではなく与えられている恵みに目を開いてくださいと祈ることができますように。詩篇119篇18節にはこうあります。「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」。もしも私たちの心の目が開かれるなら、日常生活も教会生活も180度変えられてしまいます。時に私たちは、自分はいったい何者なのか、キリストの十字架にどれほど変えられたのか、キリストのからだである教会に加えられたことがどれほど大きな恵みなのか、あまりにも分かっていないのです。

正しい認識が、正しい結果を生み出します。イエス様もそうでした。「なんだイエスか、ヨセフの息子じゃないか」とあなどり、何の期待もされなかった故郷では、あのイエス様でさえ何一つ奇跡を行うことができませんでした(マルコ6章)。教会に対しても同じです。「なんだ教会か?良く知っているよ。そして何の期待もしない」そういう人が集まる教会では、実際に何も起こらないでしょう。しかし、私たちの心の目が、教会本来の姿に開かれ、そこに全幅の信頼と期待を寄せるなら、イエス様もその教会では自由に働くことができるのです。教会とは何でしょうか?栄光の主、イエス・キリストの満ち溢れるところではありませんか!人がどう見ようとかまいません。クリスチャンがこの信仰に立つことが大切なのです。

あなたの心の目は、はっきり見えていますか?見なくても良いものを一生懸命見ていて、本当に見なければいけないものに目が閉じられているということはないでしょうか?◆あなたはもう既に救われ「栄光の富」をいただいているのです。そればかりか教会の一員となり、イエスキリストのいのちに預かる者となったのです。問題は、もう美しい白鳥なのに、自分をまだ醜いあひるの子だと思い込んでいることなのです。

教会はキリストのからだであり、
いっさいのものをいっさいのものによって
満たす方の満ちておられるところです。
(エペソ1章23節)

2010年11月13日土曜日

「ヨブ:神への恐れ(畏れ)」 ヨブ記1章、42章

前回私たちは「畏れと情熱を伴った祈り」について学びました。ウザが、神の箱の転倒を防ごうと手を伸ばしたことは確かに「善意」からでしたが、「神の箱を自分が守らないと」と思う傲慢であったことを教えられました。彼は長い間ずっと、自分の家に神の箱があり、一緒に過ごすことによって、その存在に慣れ切っていたのかもしれません。神様をよく知っていることと、神様を畏れることは違います。神様の前に正しく歩んでいることと、本当に神様を畏れて歩んでいることは違います。一体どういうことなのでしょう。

ヨブは正しい人でした。ヨブ記の一番最初に、そのことが記されています。「ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた(1:1)」。しかもそれは、「自分の息子があるいは罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思い、未然の罪まで聖別するほどの徹底ぶりでした。サタンが彼に手を伸ばし、家族と財産の全部を打った時も、彼は決して神に愚痴をこぼさず「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え主は取られる。主の御名はほむべきかな(1:21)」と主を賛美するのでした。

しかしそんな彼にも、危(あや)うさがありました。ヨブは自分の身の潔白を再三にわたって、訴えているのですが、ジョン・ホワイトはこういっています。「彼のあまりの頑固さが、自分を正当化し、できたら神様にもそれを認めさせようとする危険性をもっていたのです」。もちろん誰にも彼を責める資格はありません。もしヨブの悲劇をこうむったなら、誰がそれに耐えられるでしょうか?ヨブの友人は、そんな態度を傲慢と受け止めて、彼を責めました。でも結果的に彼らの方が、神様に戒められています(42:7)。正しい知識を並べても、そこに愛がないなら、何の値打もないのです。黙っていた方がましです。単なる知識は人を傷つけます。

同じことがヨブに対しても言えます。理解しにくいことかもしれませんが、たとえ自分が正しくて、潔白であっても、神様に対して口答えする資格は私たちにはありません。理由は…、私も考えてみましたが、なかなか説明が見つかりません。答えはただ一つ、「神様が神様であるから」なのです。ヨブも、この神様の偉大さに触れた時、こういう他ありませんでした。「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません(40:4-5)」。

沈黙もまた、祈りです。それは強情から来る沈黙ではありません。また、ただ神様が怖くて、震えている沈黙でもありません。大きな神様の臨在の前に、言葉を超えた深い交わり(畏れ)が生まれるからです。聖書にはこうあります。「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。まことに私は、自分のたましいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れした子のように私の前におります。イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て(詩131)」。祈り込んでいくと、目の前にふと、そういった「静寂」が広がっているのです。

こんな言葉を読みました。「ぶんぶんと、動く小枝に、小鳥はとまれない。主の祝福も、主を待ち望まない者にはとまれない」。時に私たちも、なんとか自分で解決しようと、なかなか静まれない時があります。すると、ますます言葉数が多くなり、ますます問題がこんがらがってくるのです。◆静まりなさい。人と格闘するのではなく、主の前に静まって、主と格闘しなさい。すると沈黙のうちに主が答えを与えて下さいます。理屈は本当の解決ではありません。主の臨在こそが、最終的な答えなのです。

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。
しかし、今、この目であなたを見ました。(42:5)
それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。(42:6)

2010年10月29日金曜日

「ダビデ 畏れと情熱を伴った祈り」 Ⅱ列王記6章1-23節

前回は、ハンナの祈りから「(心を)注ぎ出す祈り」について教えられました。ハンナは耐え難い苦しみの中で、その悲しみを、全て主の前に注ぎ出したのです。すると何が起こったでしょうか?「ハンナの顔はもはや以前のようではなくなった」のです。状況が変わったのではありません。ハンナは祈りの中で「主へのまったき信頼」という勝利に導かれたのです。今日の箇所は、彼女の「心を注ぎ出す祈り」にも通ずる箇所です。しかし読めばわかるように、今日の箇所に「祈り」は一言も登場していません。今日学ぶのは、「祈りの姿勢」についてなのです。

いきなりですが、ウザはなぜ死ななければならなかったのでしょうか?彼が善意から、牛がひっくり返しそうになった神の箱に、手を伸ばして守ろうとしたのは明らかな事実です。「良くやった」と言われてもおかしくないのに…。でも、これはただの箱ではないのです。神様ご自身が「神の臨在の象徴」として定められた、神聖な箱なのです。聖書にはこうあります。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません(使徒17:24-25)」。つまりウザの行為は、悪気はなくても、自分が「神様」を守らなければ、とする傲慢な行為だったのです。

これはダビデに対する警告でもありました。ダビデは以前から油注がれ、王に定められていたのに、サウルに苦しめられました。しかしサウルも死に、7年間ユダを治めて後、ようやくイスラエル全土の王となったのです。「早くこの国を『一つ』にまとめなければ」とのプレッシャーもあったでしょう。そこでダビデは、新しい国の象徴として、エルサレムを新首都に定め、そこに神の箱を安置しようと考えたのです。一歩間違えば、これは神の箱の政治利用にもなりかねません。自分の利益のために、神様や、神様に属するものを利用してはいけないのです。ダビデのやろうとしていたこともまた、ウザと同じく畏れを欠いた行為でした。

三か月間頭を冷やし、ダビデは純粋な気持ちで契約の箱をエルサレムに迎えました。その際、ダビデは私利私欲を棄てて、神様の前で「力の限り踊った(14)」のです。それはただのダンスではなく、彼の心からの礼拝であり、祈りでもありました。そうすることで彼は、自分の「神様に対する愛と献身」を表明したかったのです。しかしミカルはそんな夫を窓から見下ろし、さげすんだのです(16)。彼女の言葉は非常に冷淡でした。「イスラエルの王は、今日ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって(20)」。これ以上の軽蔑があるでしょうか!

神を恐れる(畏れる)ことは、冷淡になることではありません。今日の箇所には、二つの警告が含まれています。一つは、神様への畏れをなくすことへの警告です。いつの間にか神様を自分のために利用していたり、自分が神様のために何かをしてあげないといけない、と思っていないでしょうか。もう一つは、冷淡になることへの警告です。神への畏れと、感情を隠すこととを混同してはいけません。ある人たちは、静かで、おごそかだったら、神様を畏れていると思い込んでいるのです。そして、感情豊かな礼拝や賛美、そして祈りを心の中で軽蔑しているのです。

あなたの祈りには、神への畏れと、熱い情熱があるでしょうか?いつの間にか畏れを失い、神の御名を自分のために利用したり、自分が祈ってあげなくちゃいけない、と思っていませんか?またいつの間にか、祈りが冷たく、形式的になっていないでしょうか?畏れをなくさないよう気をつけつつ、熱く熱心に祈ろうではありませんか!

マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、
イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。
家は香油のかおりでいっぱいになった。(ヨハネ12章3節)

2010年10月22日金曜日

「ハンナ 注ぎ出す祈り」 サムエル記第一 1章1-18節

「祈り」の学びを始めてから、もう6回目になりますが、今までに学んだ祈りは「とりなしの祈り」や「悔い改めの祈り」など「主のみこころに沿って、このように祈るべきだ」といった感じのものが多かったように思います。ジョン・ホワイトは、そのような祈りを「水準の高い祈り」と呼びます。また「水準の高い祈りは、個人的必要についての祈りの重要性を、低くするものでは決してありません」とも言っています。主の祈りを思い出しても「御名をあがめる祈り」「御国を求める祈り」「御心を求める祈り」に続いて「日ごとの糧(毎日の必要)を求める祈り」が来ています。私たちは高い水準ばかりで、祈ることを求められているのではなく、内側から自然にあふれてくる思いをぶつけることも許されている。

例えば、最初はとても自己中心な祈りを捧げていたとしても、神様との交わりの中で、真摯に神様と向き合い、自分と向き合うなら、その祈りは徐々に成長していくのです。再びジョン・ホワイトの言葉を引用します。「あなたが成熟していくと、神様の御旨、ご目的、名誉といったものへの関心が増してゆきます。とはいっても、どんなに成熟しても自分自身の嘆きや喜びを感じなくなるようなことはありません。…あなたの悲しみや、心の痛みについて神様に訴えることを決してやめてはいけないということです(p99)」。本当に成熟した祈りとは、神様の御心を求めながらも、自分の気持ちを、ちゃんと伝えられることではないでしょうか。

ハンナには苦しみがありました。いくら待っても子供が与えられないという悩み苦しみでした。当時の女性にしてみれば、これは今日とは比べものにならない程、大きな悩みでした。しかも夫のエルカナにはもう一人の妻がおり、その女(ペニンナ)にはたくさんの子供がいたのです!そればかりかペニンナはハンナを嫌い、軽蔑し、何かにつけて嫌がらせをしていたのです(6)。夫のエルカナは、ハンナを特別に愛していたようですが(5,8)、その愛が、余計にハンナを苦しめたと考えるのは行き過ぎでしょうか。彼女の心は、今にも壊れてしまいそうでした。

そんな中、彼女は悲しみをすべて神様のところに持って行きました。食事が終わると、宮に走り、そこで激しく泣きながら祈ったのです。「万軍の主よ。もしあなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主にお捧げします(11)」。これは取引の祈りではありません。胸の内を吐露(とろ)し、一心不乱に祈る中で、自然に導かれた祈りなのです。聖書には「主は…あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださる(Ⅱ歴16:9)」とありますが、彼女の心は、祈りの中で主と一つになったのです!

試練の中で、私たちは祈りに導かれます。ハンナはもちろん普段から祈っていたでしょう。でも試練を通して、更に霊的な深みに漕ぎ出して、祈る者へと変えられたのです。そして、その祈りの中で、余分なものがそぎ落とされ、主にまったき信頼を寄せる者へと変えられていきました。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった(18)、」この言葉が印象的です。サムエルが生まれる前に、彼女はもう勝利をとっていました。主へのまったき信頼、それこそが本当の勝利です。サムエルの出生は、その結果に過ぎません。祈りは、私たちを勝利へと導きます。

あなたの祈りは、いつの間にか一般的な祈りで終わっていないでしょうか。ハンナのように心を注ぎ出す祈りを、最近いつささげたでしょうか?私たちのこの地上での歩みは「試練の時、いかにして主と深い関係を築くか」によって決まってきます。困難な時にこそ、心を主に向けることができますように。そこに本当の解決があります。

わたしは、…銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。
彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。
わたしは「これはわたしの民」と言い、
彼らは「主は私の神」と言う。ゼカリヤ13章9節

2010年10月16日土曜日

「ダニエル 最後まで徹底した悔い改め」 ダニエル9章1-19

前回はダビデの悔い改めの祈りから教えられました。その祈りの特徴は、いっさいの言い訳を棄てて、ただ主の前にへりくだり、砕かれた霊と悔いた心をもって、主の前に出ることでした。それこそが真の悔い改めなのです。そこで今日は、もう一歩進んで、悔い改めた後いつまで待ち続ければいいのかということを共に学びたいと思います。悔い改めの結果与えられる罪の赦しは一瞬です。でもその後の回復には「時間」がかかるものです。当然です。だって一度壊れてしまった、神様との関係や、人間関係が、再創造されていくのですから。自暴自棄にならず、「せっかく悔い改めたのに何にも良いかとなかった」なんてやけにならず、主の回復を待ち望む姿勢を、ダニエルの生涯からともに教えられたいと思います。

キーワードは70年です。ある日、ダニエルは聖書(エレミヤ書)を読んでいました。するとそこに、こんな記述を発見したのです。「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える(25:11)。見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの捕われ人を帰らせると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する(30:3)」。ダニエルはこの言葉を読んでどんな気持がしたでしょうか。月日は流れ、捕囚が始まってから75年が経過していました(諸説を参考の上、捕囚開始:前597年、ダリヨス即位:前522年で算出)。

約束の70年はとっくに過ぎている…。この現実の前に、ダニエルは「エレミヤの預言は実現しなかった」とうなだれたでしょうか?神様を疑ったでしょうか?聖書を疑ったでしょうか?いいえ、そのどれでもなく、ダニエルは「顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた(3)」のです。そして「ああ私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方(4)」と祈りました。ダニエルは聖書の言葉に希望を置き、必ず成し遂げて下さる神様に信頼しました。私たちはどうでしょうか?あまりにもすぐ諦めたり、落胆したりしているのではないでしょうか?

更にダニエルは、徹底して悔い改めます。「私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行い、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました(5)。主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのものです(7)…。主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです(8)」。ここでダニエルが「私たちは罪を犯した」と祈っていることに驚きを覚えます。彼は誰でしょうか?どんなときにも絶対に妥協せず、獅子の穴にも投げ込まれ、勝利した、あのダニエルではありませんか(6章)!なのにその彼が、罪人の一人として、いやその代表として、今一度徹底的に悔い改めているのです。

そこには、70年という言葉は一度も出てきません。私たちだったら「主よ、もう約束の70年はとっくに過ぎています…」と、不平不満の一つや二つ出てもおかしくはないのではないでしょうか?でもダニエルは、そういったことを一言も言わず、ただ主の憐れみにすがっているのです。そこに主を恐れる者の姿をみることができます。彼は祈りました。「主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行ってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです(19)」。

私たちが、約束のものを手に入れるのに必要なのは忍耐です。私たちには、70年との明確な期間はないかもしれません。でもあまりにも多くの場合、自分勝手に期限を決めて、諦めてしまっているのです。待ち望みなさい。御前に悔いた心をもって、祈り続けなさい。主の約束の成就は、目には見えなくても、確実に迫ってきているのです。

主も、あなたがたを、
私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、
最後まで堅く保ってくださいます。(Ⅰコリント1章8節)

2010年10月6日水曜日

「ダビデ 悔い改めの祈り」 Ⅱサムエル12章 詩篇51篇

ダビデと言えば、イスラエル史上最高の王様であり、イエス様でさえも「ダビデの子イエス様」と呼ばれました。しかし実際に、その生涯を見てみると、ダビデといえども私たちとは変わらない「生身の人間」であることが分かります。いや、ある人は「彼は普通の人間以下でしょう」と言うかもしれません。でも本当にそうでしょうか?罪に同情してはいけませんが、私たちは、そんなダビデからも学ぶことがあるのではないでしょうか?特に「悔い改めの祈り」に関しては…。

ダビデの罪はウリヤの殺害でした。その原因は、姦淫(情欲)でした。ダビデはウリヤの妻バテシェバと関係をもち、彼女が身ごもると、それをもみ消そうとウリヤを殺害したのです。とはいっても、ダビデが直接手を下したのではなく、ウリヤを激戦の最前線に出し、間接的に「見殺し」にしたのです。確かに、間接的ではありましたが、首謀者はまぎれもなくダビデ本人です。聖書にはこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです(ヤコブ4:1-2)」。どうしてこうなってしまったのでしょう。どうしてもっと早く引き返せなかったのでしょうか?

それは罪によって、霊的に麻痺していたからです。ナタンが「金持ちと貧しい人のたとえ話」をした時、ダビデは「そんなことをした男は死刑だ」と烈火のごとく怒り始めました(5)。実は、これこそが霊的に破たんした者の姿なのです。聖書にはこうあります。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(ヤコブ1:15)」。罪の本当の恐ろしさは、罪の結果ひき起こされる「霊的な死」です。死人に感覚がないのと同様に、罪を放置しておくと、私たちの良心は麻痺していき、やがて悔い改めることさえできなくなっていくのです。そればかりか、それをカモフラージュするように、周りを訴え、神を訴えて孤立を深めて行くのです。

人は、なかなか自分の罪を認めようとしません。それどころか、周りの人々の悪意を取り上げては、アイツらの方がヒドイと騒いでみたり「誰がそんなことを告げ口した!?」と逆恨みしたり、また時には自分の生い立ちや環境のせいにしては、自分を犠牲者(可哀そうな人)にしたて上げてしまうのです。気を付けて下さい!カウンセリングだって一歩間違うと「自己正当化の道具」となってしまいます。罪の原因は色々あるでしょう。しかし、誰かのせいにしている限り、真の解決もないのです。ジョン・ホワイトはこう言います。「自分を守るのはやめなさい。我々が根本的に、罪深い者であるという事実をはっきり見つめ、無条件に受け入れ、完全に認めるまでは。神様の恵みも力を発揮することができないのです」。

「私は主に対して罪を犯した(13)」それがダビデの結論でした。もちろんウリヤに対する謝罪の念も、その言葉に含まれています。人に対する罪はすべて、その人を愛しておられる主に対する罪でもあるのですから。彼の悔い改めの祈りは、詩篇51篇に詳しく記されています。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています(3)」「私は咎ある者として生まれました(5)」。そこに、いっさい言い訳や主張は含まれていません。そしてただ「ヒソプをもって私の罪を除いて清めて下さい(7)」と主の憐れみにすがっているのです。これこそが真の悔い改めなのです!

私たちの悔い改めは、いつの間にか自己弁護の祈りになっていないでしょうか?もう一度、一切の言い訳やパフォーマンスを棄てて、主の前に「砕かれた霊」をもって祈ろうではありませんか?その時、十字架の血潮が私たちをすべての罪から聖めます。そして失われた喜びがよみがえり、私たちは本当の意味で人生の再スタートを切ることができるのです。主はあなたの言葉や行いではなく、心に興味をもっておられます。

神へのいけにえは、砕かれた霊。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51篇16-17節)

「モーセ 破れ口に立つ祈り」 出エジプト32章1-35節

今日の箇所の冒頭で、イスラエルの民はこう叫びます。「さあ私たちに先立っていく神を造ってください」。彼らはシナイ山に登ったまま帰ってこないモーセに不信感を募らせ、自分たちにとって都合のよい偶像を造ってくれと哀願したのです。エジプトから救い出し、紅海を分け、雲と火の柱をもって導かれた神様を、いとも簡単に、自分たちの都合のよい、ちっぽけな偶像にしてしまったのです。

でも、同じことを私たちもしていないでしょうか?私たちも真の神様を、自分たちにとって都合のよい「神様」にしていないでしょうか?「神様はどんな罪でも見逃すべきだと」「偏狭(へんきょう)な神様は、今どきはやらない」「神様は私たちを、どこまでも愛し、赦してくれる方なんでしょ?」誤解しないでください。神様は、確かに愛なのです(Ⅰヨハネ4:8)。でもその愛が、いつの間にか薄っぺらな、ヒューマニズム(人間中心)的な「愛」になってはいないでしょうか?もし私たちが神様を、まるで着せ替え人形のように、自分の都合のよい存在に仕立て上げてしまうなら、それもまた「偶像(金の子牛)」なのではないでしょうか。

今日の箇所では、偶像礼拝の罪のために、3000人が倒れました。ある人は言うかもしれません。「あんまりじゃないですか?神様はそんなに残酷な方なのでしょうか」?そんな人に対して、ジョン・ホワイトはこう言います。「これも聖書の一部なのです。あなたのビジョンはゆがめられ、価値観は汚れています。あなたの意志の中へ御言葉を深く沈めるときのみ(聖書をもう一度開かれた心で読んでみるときにのみ)罪の本当の恐ろしさを知ることができます。神様の見方で罪を見つめるまでは、とりなしの祈りの緊急性を体験することはできません」。私たちがどんなに勝手な「神様」を造り出そうとも、真の神様は変わらないのです。

その神様の目に、今の世界はどのように映っているでしょうか。人々は自分の欲望を神としてあがめ、神を神とせず、自分勝手な道を歩んでいます。ある者は神を無視し、ある者は神をののしり、ある者は神の存在さえ認めません。私たちは、そのような時代に生かされているのです。この時代にあって、私たちはただ「私たちの教会を祝して下さい」「家族を守ってください」もしくは「彼らのように罪深くないことを感謝します」とだけ祈っていても良いのでしょうか?いま最も求められるのは、この時代の破れ口にたって真剣に祈る人ではないでしょうか?

モーセは主に嘆願して祈りました(11)。「あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民への災いを思いなおして下さい(12)」。そしてこうとも祈りました。「今もし彼らの罪をお赦しくだされるものなら…。しかし、もしもかないませんなら、どうかあなたがお書きになったあなたの書物から私の名を消し去ってください(32)」。考えてもみれば、驚きの祈りです。彼らは、都合の良い時にはモーセを持ち上げるくせに、都合が悪くなればすぐに不平を鳴らし、反逆してくる、悩みの種のような存在でした。今回の件だって、考えてもみれば彼らの自業自得です。なのに、その彼らの救いのためだったら、自分が神様に見捨てられてもいいというのです。

私たちの祈りは、いつの間にか自己満足の祈りになっていないでしょうか?だからといって、この祈りを安易にマネすることは危険です。本来なら「良い子は、絶対マネしないでね」とのテロップを付けたいぐらいです。また「そんな名前、別に消されたっていいし…」と思っているのであったら、その祈りはかえって災いとなります。◆でも、このような気持ちで、友のために、家族のために、そして国のために真剣に祈ることは、クリスチャンとしての責任ではないでしょうか?だって、私たちクリスチャンは、イエス様の捨て身のとりなし(十字架)によって贖われたのですから。もしクリスチャンが真剣に祈るなら、この国は変わります。そして世界は変わるのです。

三時ごろ、イエスは大声で、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。
これは、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味である。
(マタイ27章46節)

2010年9月17日金曜日

「ヤコブ 自分中心から神中心への祈り」 創世記32章6-32節

「人は試練の時どう祈るか?」シリーズの二回目ですが、今回はヤコブの生涯から学びたいと思います。時に、私たちの人生には、大きな危機が襲ってきます。そこで重要なのは、私たちがそれとどう向き合い、乗り越えていくかです。なぜならそれによって、その危機が「益(それからの人生の肥やし・祝福)」となるのか、それとも単なる「災難」に終わってしまうのかが決まってくるからです。

ヤコブの人生の危機、それはエサウとの再会でした(32章)。その時ヤコブは「非常に恐れ、心配(7)」していました。なぜなら二人の間には、長い確執がそのまま残っていたからです。父イサクの臨終の直前、イサクが特別な祝福の祈りをさずけるときのことです、ヤコブは母リベカと結託して、長子の権利をエサウから騙し取ってしまったのです(27章)。エサウは怒り狂い、ヤコブを殺そうと思いました(27:41)。しかしエサウにも非がなかったわけではありません。彼は「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売って」しまったのです(ヘブル 12:16)。聖書はこのようなエサウの態度を「俗悪」と戒めています。

ヤコブには、神様の祝福に対する飽くなき渇望(かつぼう)がありました。彼はエサウのように、それを何か他のモノと交換しようとは思いませんでした。それどころか、相手を騙してでも、それを自分のものにしたいと思ったのです。前回の表現を借りるなら、生まれた時から「兄が弟に仕える(25:23)」というのは、神様によって「既に定められた御心」でした。しかし、このような不正な手段によって、祝福を奪い取るというのは「主の望まれた御心」ではなかったのです。事実このことによって、彼は長い間、人間関係の「ねじれ」を経験するのでした。彼の祝福に対する激しい渇望は、良いところでもあり、同時に弱点でもありました。

ヤコブという名前には「押しのける(27:36)」という意味があります。「押しのける」には「力づくで、他を排除する」という意味がありますが、彼の人生は、まさしくそのように「力づくで、他を排斥し、祝福を奪い去るような人生」でした。エサウの件はもちろん、ラバンのもとでも、自分の「知恵と力(策略)」によって、試練を切り抜け、祝福を得てきました(30章)。そして今回も、彼は自分の持ち物を、二つの宿営に分け、さらに家畜をいくつかの群れに分けて、贈り物の波状攻撃によってエサウの心をなだめようとしたのです。これもまた彼の策略でした。

そんな時です。ヤコブが神と格闘したのは。一見それはヤコブの勝利で終わっているように書かれています。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って勝ったからだ(28)」。しかし本当にそうでしょうか?聖書には時々逆説的な表現が登場しますが、ここでも実際は、ヤコブのもものつがいが外されており(25)びっこをひくようになりました。これは、彼の体だけでなく、自我が砕かれたということです。その証拠に彼の名前はイスラエル(神が戦われる)と変えられました。自分により頼む人生から「戦ってくださる神様」に信頼する新しい人生に入れられたのです。これこそ真の勝利です。

ヤコブの格闘から、祈りに不可欠な二つの要素を知ることができます。ひとつは粘り強さです。ヤコブがこう言っています。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ(26)」。この祝福への渇望が大切なのです。しかしそれは、神様でも熱心によって祈り倒せるという意味ではありません。◆祈りの中で私たちの祈りは変えられていきます。最初は自分のことしか見えていなくても、祈りの中で徐々に周りが見えてきて、神様のみこころが見えてくるのです。すると最終的に自我が砕かれ、私たちのために戦ってくださる神様にゆだねる信仰が芽生えるのです。反対に言えば、そこまで「粘り強く祈りなさい(神様と格闘しなさい)」ということなのです。

その人は言った。
「あなたの名は何というのか。」
彼は答えた。「ヤコブです。」
その人は言った。
「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。
イスラエルだ。
あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
(32:27-28)

「アブラハム 友としての祈り」 創世記18章16-33節

夏休みを終え、聖書研究祈祷会を再開いたします。新しい学びのテーマは「人は試練の時どう祈るか」です。これはジョン・ホワイト著の「人は試練の時、どう祈るか」(いのちのことば社)を参考にしながら、教会のコンテキスト(文脈)に即し、まとめられたものです。学びの内容としては「試練」の時だけではなくて、人生の「転機」や「危機」の時にどう祈るのかを、学んでいきたいと思います。最初に取り上げるのは、信仰の父とも呼ばれている、アブラハムの祈りです。

ある日アブラハムのもとに3人の人が現れました(18:2)。それが現実の人か、それとも単なる幻であったのかどうかは、私たちにはわかりませんが、アブラハムとその妻サラは、現実に彼らを見、言葉を交わしています。その中の一人は、途中から「主」と呼ばれています(13)。ということは、残りの二人は御使いでしょうか。彼らの使命は大きく分けて二つ。一つはアブラハムとサラに「来年の今頃、男の子ができている(10)」ということを告げるため、そしてもう一つは「アブラハムの甥のロトが住んでいるソドムとゴモラの町」の行く末を告げることでした。

そこで主は一つのことを悩まれます。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか(17)」。良く考えてみると不思議な悩みです。「主」とは、私たち人類と全宇宙を造られた「創造主」のことです。私たちは「被造物」であり、私たちと主との間には超えることのできない一線があります。でも、その主が「ご自身が考えておられることを、私たち人間にも分かち合うべきかを悩まれている」のです。そんなこと悩まずに、主権者として、私たちとは関係なく、ご自分の決められたことを、そのまま行えばよいのではないでしょうか?でもそうではないのです、主は、私たちに御心を分かち合いたいと願われているのです。

それは私たちが神の友であるからです。聖書にはこう書かれています。「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた、という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです(ヤコブ2:23)」。でもある人は言うかもしれません。「アブラハムはそうかもしれないけど、私は違います。彼は特別な人ですから」。でも本当にそうでしょうか?聖書にはこうとも書かれています。「わたし(イエス・キリスト)はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)」。

その上で、神様は、その友(わたしたち)の率直な意見を聞きたいと望まれています。聖書の中には、大きく分けて二つの「御心」が存在します。一つは既に定まっている御心で、例えば「主の再臨とその時期」など、私たちには隠されている事柄です(マタイ24:36)。でもその他に、主が私たちの参与を積極的に求められる、もう一つの「御心」が存在するのです。イエス様も良く「彼らの信仰をみて(マタイ9:2)」と言われたではありませんか。ソドムとゴモラのことについても、アブラハムは主に率直に語りかけて(食らいついて)います。そう考えると私たちの祈りも変わってくるのではないでしょうか?少なくとも「(消極的な意味で)御心のままに」と、他人事のように祈ることはなくなるのではないでしょうか?

神の友として、まずあなたは主の言葉に耳を傾けていますか?自分のことばかりを話す友はいません。良い友はまず相手の言葉に耳を傾けるものです。そして、相手の悲しみを自分の悲しみとし、喜びを自分の喜びとするのです。◆その上で、率直に語ることも重要です。「なれなれしく語る」ことではありません!アブラハムも「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください(27)」と語っています。畏れを保ちつつ、思いと願いを率直かつ熱心に祈ることが大切なのです。

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、
あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)