2010年9月17日金曜日

「アブラハム 友としての祈り」 創世記18章16-33節

夏休みを終え、聖書研究祈祷会を再開いたします。新しい学びのテーマは「人は試練の時どう祈るか」です。これはジョン・ホワイト著の「人は試練の時、どう祈るか」(いのちのことば社)を参考にしながら、教会のコンテキスト(文脈)に即し、まとめられたものです。学びの内容としては「試練」の時だけではなくて、人生の「転機」や「危機」の時にどう祈るのかを、学んでいきたいと思います。最初に取り上げるのは、信仰の父とも呼ばれている、アブラハムの祈りです。

ある日アブラハムのもとに3人の人が現れました(18:2)。それが現実の人か、それとも単なる幻であったのかどうかは、私たちにはわかりませんが、アブラハムとその妻サラは、現実に彼らを見、言葉を交わしています。その中の一人は、途中から「主」と呼ばれています(13)。ということは、残りの二人は御使いでしょうか。彼らの使命は大きく分けて二つ。一つはアブラハムとサラに「来年の今頃、男の子ができている(10)」ということを告げるため、そしてもう一つは「アブラハムの甥のロトが住んでいるソドムとゴモラの町」の行く末を告げることでした。

そこで主は一つのことを悩まれます。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか(17)」。良く考えてみると不思議な悩みです。「主」とは、私たち人類と全宇宙を造られた「創造主」のことです。私たちは「被造物」であり、私たちと主との間には超えることのできない一線があります。でも、その主が「ご自身が考えておられることを、私たち人間にも分かち合うべきかを悩まれている」のです。そんなこと悩まずに、主権者として、私たちとは関係なく、ご自分の決められたことを、そのまま行えばよいのではないでしょうか?でもそうではないのです、主は、私たちに御心を分かち合いたいと願われているのです。

それは私たちが神の友であるからです。聖書にはこう書かれています。「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた、という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです(ヤコブ2:23)」。でもある人は言うかもしれません。「アブラハムはそうかもしれないけど、私は違います。彼は特別な人ですから」。でも本当にそうでしょうか?聖書にはこうとも書かれています。「わたし(イエス・キリスト)はもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)」。

その上で、神様は、その友(わたしたち)の率直な意見を聞きたいと望まれています。聖書の中には、大きく分けて二つの「御心」が存在します。一つは既に定まっている御心で、例えば「主の再臨とその時期」など、私たちには隠されている事柄です(マタイ24:36)。でもその他に、主が私たちの参与を積極的に求められる、もう一つの「御心」が存在するのです。イエス様も良く「彼らの信仰をみて(マタイ9:2)」と言われたではありませんか。ソドムとゴモラのことについても、アブラハムは主に率直に語りかけて(食らいついて)います。そう考えると私たちの祈りも変わってくるのではないでしょうか?少なくとも「(消極的な意味で)御心のままに」と、他人事のように祈ることはなくなるのではないでしょうか?

神の友として、まずあなたは主の言葉に耳を傾けていますか?自分のことばかりを話す友はいません。良い友はまず相手の言葉に耳を傾けるものです。そして、相手の悲しみを自分の悲しみとし、喜びを自分の喜びとするのです。◆その上で、率直に語ることも重要です。「なれなれしく語る」ことではありません!アブラハムも「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください(27)」と語っています。畏れを保ちつつ、思いと願いを率直かつ熱心に祈ることが大切なのです。

わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、
あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ15:15)

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