2011年1月4日火曜日

「イエス様 しかし御心のままを」 マルコ14章32-42章

私たちは今まで「人は試練の時どう祈るか」というテーマで学んできましたが、いよいよ今回を含めて、残すところ2回となりました。今回学ぶのは「ゲツセマネの祈り」。この祈りを語らずして、試練の中の祈りを語ることはできません。マルコ福音書には書かれていませんが、ルカ福音書には「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた(22:44)」とも記されています。その壮絶な祈りの全貌を、ともに読み進めて行きましょう。

ゲツセマネの祈りの直前、ペテロとイエス様の会話が記されています。ペテロは力を込めてこう言いました。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません(31)」。でもその結果は、皆さんもご存じのとおりです。彼は三度も「イエス様を知らない」と否認してしまったのです。彼の熱心さは、霊的なものではなく、肉的なものでした。「俺様は絶対にそんなことしない」とも聞こえます。でもイエス様は言われました。「心は燃えていても、肉体は弱いのです(38)」。十字架の道は、いってみるなら、濁流の川のようなものです。ペテロのように、どんなに勇ましく飛び込んでも決して渡れないのです。その川は、ただ「祈り」によってしか渡れないのです。

イエス様はゲツセマネで、弟子たちにもともに祈るようお願いされました。今日の箇所には「わたしが祈る間、ここに座っていなさい(32)」としか書かれていませんが、もちろんそれは、ともに祈っていなさいという意味でもあります。当然、イエス様は、まことの神ですから、人からのとりなしは必要とされません。でもイエス様はこれから、人の罪を背負い、父なる神(アバ父)との完全な断絶を味わおうとしているのです。その瞬間、神の子としての栄光は消え失せ、ひとりの人として闇に飲み込まれようとしているのです。特に親しい信仰の友(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)にも、一緒に祈ってほしいと思うのは当然ではないでしょうか。

「あなたの無関心によって、声なき叫びをあげている人はいないでしょうか?」先日ラジオを聞いていたら、そんな公共広告が流れてきました。イエス様でさえ、友からの祈りの支援(とりなし)を必要とされました。だとしたら私たちは、尚更の事ではないでしょうか?あなたには、いざという時、祈りの要請をできる「とりなしのグループ」があるでしょうか?またあなたの周りには、あなたの祈りを必要としている人はいないでしょうか?もしかしたら、苦しみもだえる人の目と鼻の先で、私たちも弟子たちのように、呑気に眠りこけているのかもしれません。

イエス様は、苦しみもだえ始められました(34)。有名な祈りです。「アバ父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください(36)」。ここから、祈りとは何かを知ることができます。それは、自分の願いを神様に押し付けることではなく、むしろ自分の願いを、神様のみこころに一致させるための大切な過程だということを。もしかしたら、血の汗を流すほど苦しい事かもしれない。でもその先に、本当の勝利があるのです。

「もう十分です」。私は長い間、イエス様が何回言っても眠りこける弟子たちにうんざりされたから「もう十分だ!」と言われたのだと思っていました。でも違いました。この言葉には「もうこれでいい(もはや葛藤はなくなりました)」との意味があるそうです。イエス様は十字架の上で勝利を取られましたが、その勝敗は、このゲツセマネで決まっていたのです。◆私たちも同じです。勝負は、家を出る前の、密室の祈りで決まるのです。あなたのゲツセマネはどこですか?そこが「人生の主戦場」です。

まだ眠って休んでいるのですか。
もう十分です。時が来ました。
見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
立ちなさい。さあ、行くのです。
(マルコ14章41-42節)

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