2011年1月4日火曜日

「パウロ 愛を知ることができますように」 エペソ3章14-21章

「パウロ:愛を知ることができますように」 エペソ3章14-21章
前回に引き続き「エペソ人への手紙」から「試練の時の祈り」について教えられたいと思います。パウロは1章で「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか…知ることができるように(18‐19)」と祈りました。試練の時に大切なのは、ない物ねだりをすることではなく、既に与えられている「恵み」に心の目が開かれることだったのです。今日はその続きです。

あらためてパウロは、ひざをかがめて、父の御前で祈ります(14-15)。なぜ祈るのか?それは天の父こそが「私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方(20)」だからです。私たちは、そのことを本当に信じているでしょうか?たとえ八方ふさがりでも、万策(ばんさく)尽きたように見えても、まだ希望が残されていることを。今も生きて働かれる神様にこそ本当の希望があります。ひざをかがめて祈るとは、神様の御前に自分を空しくすることです。単なるポーズではなく、心の姿勢が問われています。そこからすべてが始まる。そこから神様の栄光が見えてくるのです!

どうか天の父が、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように(16)。よく、「しっかり愛された人の心は折れにくい」といいます。だから親の愛は大切だと。でも人の与える愛は完全ではありません。親の愛であっても…です。だから私たちは神様の愛に「深く根差し」そこに「基礎を置く」必要があるのです(17)。パウロはこう祈ります。「(どうか、その愛の)広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように(18-19)」。でも、どこか抽象的です。愛は目に見えないのでしょうがないのですが、もっと具体的に言えないのでしょうか?そういえば、この祈りの最初は「こういうわけで」という言葉で始まっています。

パウロの確信は、どうしようもない自分が、一方的な恵みによって救われたことです。2章にはこうあります。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、共によみがえらせ、ともに天のところに座らせてくださいました (3-6)」。また3章でも。「すべての聖徒たちのうちで一番小さなわたしに、この恵みが与えられた(8)」と告白しています。この十字架の恵みに根差すことが大切で、この十字架の恵みをますます深く理解するときに、どんな試練の中でも決して折れない心が与えられるのです。

他のどこかに解決があるのではありません。キョロキョロするのを止め、十字架の愛にしっかりとどまり、この愛に根を張ることができますように。その時キリストの愛が私たちの人生全体に流れ始め、私たちは「神ご自身の満ち満ちたさまにまで満たされる(成長させられる)」のです(19)。マラソンのQちゃんこと高橋尚子選手の座右の銘を思い出します。「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」。試練の時の祈りも、同じではないでしょうか?

あなたの人生は、何に根をおろしていますか?人は何に根をおろしているかによって、咲かせる花も決まってきます。十字架に根差す者の花からは、キリストの香りがします。そしてそういったクリスチャンの集まる教会を通して主の栄光が現れるのです!

また、あなたがたが
すべての聖なる者たちと共に、
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超える
この愛を知るようになり、
そしてついには、
神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。
(新共同訳3章18-19節)

1 件のコメント:

  1.  最近、聖書をほとんど読んでいなかったので、また読んでみようかなという気になりました。高橋尚子さんの座右の銘は素晴らしいですね。でも、人間なかなか弱い動物で、分かっていても脇道にそれていくような気がします。それをどう修正出来るかが問題ですね。

     

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