2010年10月6日水曜日

「ダビデ 悔い改めの祈り」 Ⅱサムエル12章 詩篇51篇

ダビデと言えば、イスラエル史上最高の王様であり、イエス様でさえも「ダビデの子イエス様」と呼ばれました。しかし実際に、その生涯を見てみると、ダビデといえども私たちとは変わらない「生身の人間」であることが分かります。いや、ある人は「彼は普通の人間以下でしょう」と言うかもしれません。でも本当にそうでしょうか?罪に同情してはいけませんが、私たちは、そんなダビデからも学ぶことがあるのではないでしょうか?特に「悔い改めの祈り」に関しては…。

ダビデの罪はウリヤの殺害でした。その原因は、姦淫(情欲)でした。ダビデはウリヤの妻バテシェバと関係をもち、彼女が身ごもると、それをもみ消そうとウリヤを殺害したのです。とはいっても、ダビデが直接手を下したのではなく、ウリヤを激戦の最前線に出し、間接的に「見殺し」にしたのです。確かに、間接的ではありましたが、首謀者はまぎれもなくダビデ本人です。聖書にはこうあります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです(ヤコブ4:1-2)」。どうしてこうなってしまったのでしょう。どうしてもっと早く引き返せなかったのでしょうか?

それは罪によって、霊的に麻痺していたからです。ナタンが「金持ちと貧しい人のたとえ話」をした時、ダビデは「そんなことをした男は死刑だ」と烈火のごとく怒り始めました(5)。実は、これこそが霊的に破たんした者の姿なのです。聖書にはこうあります。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(ヤコブ1:15)」。罪の本当の恐ろしさは、罪の結果ひき起こされる「霊的な死」です。死人に感覚がないのと同様に、罪を放置しておくと、私たちの良心は麻痺していき、やがて悔い改めることさえできなくなっていくのです。そればかりか、それをカモフラージュするように、周りを訴え、神を訴えて孤立を深めて行くのです。

人は、なかなか自分の罪を認めようとしません。それどころか、周りの人々の悪意を取り上げては、アイツらの方がヒドイと騒いでみたり「誰がそんなことを告げ口した!?」と逆恨みしたり、また時には自分の生い立ちや環境のせいにしては、自分を犠牲者(可哀そうな人)にしたて上げてしまうのです。気を付けて下さい!カウンセリングだって一歩間違うと「自己正当化の道具」となってしまいます。罪の原因は色々あるでしょう。しかし、誰かのせいにしている限り、真の解決もないのです。ジョン・ホワイトはこう言います。「自分を守るのはやめなさい。我々が根本的に、罪深い者であるという事実をはっきり見つめ、無条件に受け入れ、完全に認めるまでは。神様の恵みも力を発揮することができないのです」。

「私は主に対して罪を犯した(13)」それがダビデの結論でした。もちろんウリヤに対する謝罪の念も、その言葉に含まれています。人に対する罪はすべて、その人を愛しておられる主に対する罪でもあるのですから。彼の悔い改めの祈りは、詩篇51篇に詳しく記されています。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています(3)」「私は咎ある者として生まれました(5)」。そこに、いっさい言い訳や主張は含まれていません。そしてただ「ヒソプをもって私の罪を除いて清めて下さい(7)」と主の憐れみにすがっているのです。これこそが真の悔い改めなのです!

私たちの悔い改めは、いつの間にか自己弁護の祈りになっていないでしょうか?もう一度、一切の言い訳やパフォーマンスを棄てて、主の前に「砕かれた霊」をもって祈ろうではありませんか?その時、十字架の血潮が私たちをすべての罪から聖めます。そして失われた喜びがよみがえり、私たちは本当の意味で人生の再スタートを切ることができるのです。主はあなたの言葉や行いではなく、心に興味をもっておられます。

神へのいけにえは、砕かれた霊。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(詩篇51篇16-17節)

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