2010年10月22日金曜日

「ハンナ 注ぎ出す祈り」 サムエル記第一 1章1-18節

「祈り」の学びを始めてから、もう6回目になりますが、今までに学んだ祈りは「とりなしの祈り」や「悔い改めの祈り」など「主のみこころに沿って、このように祈るべきだ」といった感じのものが多かったように思います。ジョン・ホワイトは、そのような祈りを「水準の高い祈り」と呼びます。また「水準の高い祈りは、個人的必要についての祈りの重要性を、低くするものでは決してありません」とも言っています。主の祈りを思い出しても「御名をあがめる祈り」「御国を求める祈り」「御心を求める祈り」に続いて「日ごとの糧(毎日の必要)を求める祈り」が来ています。私たちは高い水準ばかりで、祈ることを求められているのではなく、内側から自然にあふれてくる思いをぶつけることも許されている。

例えば、最初はとても自己中心な祈りを捧げていたとしても、神様との交わりの中で、真摯に神様と向き合い、自分と向き合うなら、その祈りは徐々に成長していくのです。再びジョン・ホワイトの言葉を引用します。「あなたが成熟していくと、神様の御旨、ご目的、名誉といったものへの関心が増してゆきます。とはいっても、どんなに成熟しても自分自身の嘆きや喜びを感じなくなるようなことはありません。…あなたの悲しみや、心の痛みについて神様に訴えることを決してやめてはいけないということです(p99)」。本当に成熟した祈りとは、神様の御心を求めながらも、自分の気持ちを、ちゃんと伝えられることではないでしょうか。

ハンナには苦しみがありました。いくら待っても子供が与えられないという悩み苦しみでした。当時の女性にしてみれば、これは今日とは比べものにならない程、大きな悩みでした。しかも夫のエルカナにはもう一人の妻がおり、その女(ペニンナ)にはたくさんの子供がいたのです!そればかりかペニンナはハンナを嫌い、軽蔑し、何かにつけて嫌がらせをしていたのです(6)。夫のエルカナは、ハンナを特別に愛していたようですが(5,8)、その愛が、余計にハンナを苦しめたと考えるのは行き過ぎでしょうか。彼女の心は、今にも壊れてしまいそうでした。

そんな中、彼女は悲しみをすべて神様のところに持って行きました。食事が終わると、宮に走り、そこで激しく泣きながら祈ったのです。「万軍の主よ。もしあなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主にお捧げします(11)」。これは取引の祈りではありません。胸の内を吐露(とろ)し、一心不乱に祈る中で、自然に導かれた祈りなのです。聖書には「主は…あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださる(Ⅱ歴16:9)」とありますが、彼女の心は、祈りの中で主と一つになったのです!

試練の中で、私たちは祈りに導かれます。ハンナはもちろん普段から祈っていたでしょう。でも試練を通して、更に霊的な深みに漕ぎ出して、祈る者へと変えられたのです。そして、その祈りの中で、余分なものがそぎ落とされ、主にまったき信頼を寄せる者へと変えられていきました。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった(18)、」この言葉が印象的です。サムエルが生まれる前に、彼女はもう勝利をとっていました。主へのまったき信頼、それこそが本当の勝利です。サムエルの出生は、その結果に過ぎません。祈りは、私たちを勝利へと導きます。

あなたの祈りは、いつの間にか一般的な祈りで終わっていないでしょうか。ハンナのように心を注ぎ出す祈りを、最近いつささげたでしょうか?私たちのこの地上での歩みは「試練の時、いかにして主と深い関係を築くか」によって決まってきます。困難な時にこそ、心を主に向けることができますように。そこに本当の解決があります。

わたしは、…銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。
彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。
わたしは「これはわたしの民」と言い、
彼らは「主は私の神」と言う。ゼカリヤ13章9節

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