2010年10月6日水曜日

「モーセ 破れ口に立つ祈り」 出エジプト32章1-35節

今日の箇所の冒頭で、イスラエルの民はこう叫びます。「さあ私たちに先立っていく神を造ってください」。彼らはシナイ山に登ったまま帰ってこないモーセに不信感を募らせ、自分たちにとって都合のよい偶像を造ってくれと哀願したのです。エジプトから救い出し、紅海を分け、雲と火の柱をもって導かれた神様を、いとも簡単に、自分たちの都合のよい、ちっぽけな偶像にしてしまったのです。

でも、同じことを私たちもしていないでしょうか?私たちも真の神様を、自分たちにとって都合のよい「神様」にしていないでしょうか?「神様はどんな罪でも見逃すべきだと」「偏狭(へんきょう)な神様は、今どきはやらない」「神様は私たちを、どこまでも愛し、赦してくれる方なんでしょ?」誤解しないでください。神様は、確かに愛なのです(Ⅰヨハネ4:8)。でもその愛が、いつの間にか薄っぺらな、ヒューマニズム(人間中心)的な「愛」になってはいないでしょうか?もし私たちが神様を、まるで着せ替え人形のように、自分の都合のよい存在に仕立て上げてしまうなら、それもまた「偶像(金の子牛)」なのではないでしょうか。

今日の箇所では、偶像礼拝の罪のために、3000人が倒れました。ある人は言うかもしれません。「あんまりじゃないですか?神様はそんなに残酷な方なのでしょうか」?そんな人に対して、ジョン・ホワイトはこう言います。「これも聖書の一部なのです。あなたのビジョンはゆがめられ、価値観は汚れています。あなたの意志の中へ御言葉を深く沈めるときのみ(聖書をもう一度開かれた心で読んでみるときにのみ)罪の本当の恐ろしさを知ることができます。神様の見方で罪を見つめるまでは、とりなしの祈りの緊急性を体験することはできません」。私たちがどんなに勝手な「神様」を造り出そうとも、真の神様は変わらないのです。

その神様の目に、今の世界はどのように映っているでしょうか。人々は自分の欲望を神としてあがめ、神を神とせず、自分勝手な道を歩んでいます。ある者は神を無視し、ある者は神をののしり、ある者は神の存在さえ認めません。私たちは、そのような時代に生かされているのです。この時代にあって、私たちはただ「私たちの教会を祝して下さい」「家族を守ってください」もしくは「彼らのように罪深くないことを感謝します」とだけ祈っていても良いのでしょうか?いま最も求められるのは、この時代の破れ口にたって真剣に祈る人ではないでしょうか?

モーセは主に嘆願して祈りました(11)。「あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民への災いを思いなおして下さい(12)」。そしてこうとも祈りました。「今もし彼らの罪をお赦しくだされるものなら…。しかし、もしもかないませんなら、どうかあなたがお書きになったあなたの書物から私の名を消し去ってください(32)」。考えてもみれば、驚きの祈りです。彼らは、都合の良い時にはモーセを持ち上げるくせに、都合が悪くなればすぐに不平を鳴らし、反逆してくる、悩みの種のような存在でした。今回の件だって、考えてもみれば彼らの自業自得です。なのに、その彼らの救いのためだったら、自分が神様に見捨てられてもいいというのです。

私たちの祈りは、いつの間にか自己満足の祈りになっていないでしょうか?だからといって、この祈りを安易にマネすることは危険です。本来なら「良い子は、絶対マネしないでね」とのテロップを付けたいぐらいです。また「そんな名前、別に消されたっていいし…」と思っているのであったら、その祈りはかえって災いとなります。◆でも、このような気持ちで、友のために、家族のために、そして国のために真剣に祈ることは、クリスチャンとしての責任ではないでしょうか?だって、私たちクリスチャンは、イエス様の捨て身のとりなし(十字架)によって贖われたのですから。もしクリスチャンが真剣に祈るなら、この国は変わります。そして世界は変わるのです。

三時ごろ、イエスは大声で、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。
これは、
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
という意味である。
(マタイ27章46節)

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