2010年10月16日土曜日

「ダニエル 最後まで徹底した悔い改め」 ダニエル9章1-19

前回はダビデの悔い改めの祈りから教えられました。その祈りの特徴は、いっさいの言い訳を棄てて、ただ主の前にへりくだり、砕かれた霊と悔いた心をもって、主の前に出ることでした。それこそが真の悔い改めなのです。そこで今日は、もう一歩進んで、悔い改めた後いつまで待ち続ければいいのかということを共に学びたいと思います。悔い改めの結果与えられる罪の赦しは一瞬です。でもその後の回復には「時間」がかかるものです。当然です。だって一度壊れてしまった、神様との関係や、人間関係が、再創造されていくのですから。自暴自棄にならず、「せっかく悔い改めたのに何にも良いかとなかった」なんてやけにならず、主の回復を待ち望む姿勢を、ダニエルの生涯からともに教えられたいと思います。

キーワードは70年です。ある日、ダニエルは聖書(エレミヤ書)を読んでいました。するとそこに、こんな記述を発見したのです。「この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える(25:11)。見よ。その日が来る。―主の御告げ。―その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの捕われ人を帰らせると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する(30:3)」。ダニエルはこの言葉を読んでどんな気持がしたでしょうか。月日は流れ、捕囚が始まってから75年が経過していました(諸説を参考の上、捕囚開始:前597年、ダリヨス即位:前522年で算出)。

約束の70年はとっくに過ぎている…。この現実の前に、ダニエルは「エレミヤの預言は実現しなかった」とうなだれたでしょうか?神様を疑ったでしょうか?聖書を疑ったでしょうか?いいえ、そのどれでもなく、ダニエルは「顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた(3)」のです。そして「ああ私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方(4)」と祈りました。ダニエルは聖書の言葉に希望を置き、必ず成し遂げて下さる神様に信頼しました。私たちはどうでしょうか?あまりにもすぐ諦めたり、落胆したりしているのではないでしょうか?

更にダニエルは、徹底して悔い改めます。「私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行い、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました(5)。主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのものです(7)…。主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです(8)」。ここでダニエルが「私たちは罪を犯した」と祈っていることに驚きを覚えます。彼は誰でしょうか?どんなときにも絶対に妥協せず、獅子の穴にも投げ込まれ、勝利した、あのダニエルではありませんか(6章)!なのにその彼が、罪人の一人として、いやその代表として、今一度徹底的に悔い改めているのです。

そこには、70年という言葉は一度も出てきません。私たちだったら「主よ、もう約束の70年はとっくに過ぎています…」と、不平不満の一つや二つ出てもおかしくはないのではないでしょうか?でもダニエルは、そういったことを一言も言わず、ただ主の憐れみにすがっているのです。そこに主を恐れる者の姿をみることができます。彼は祈りました。「主よ。聞いてください。主よ。お赦しください。主よ。心に留めて行ってください。私の神よ。あなたご自身のために遅らせないでください。あなたの町と民とには、あなたの名がつけられているからです(19)」。

私たちが、約束のものを手に入れるのに必要なのは忍耐です。私たちには、70年との明確な期間はないかもしれません。でもあまりにも多くの場合、自分勝手に期限を決めて、諦めてしまっているのです。待ち望みなさい。御前に悔いた心をもって、祈り続けなさい。主の約束の成就は、目には見えなくても、確実に迫ってきているのです。

主も、あなたがたを、
私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、
最後まで堅く保ってくださいます。(Ⅰコリント1章8節)

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