2010年10月29日金曜日

「ダビデ 畏れと情熱を伴った祈り」 Ⅱ列王記6章1-23節

前回は、ハンナの祈りから「(心を)注ぎ出す祈り」について教えられました。ハンナは耐え難い苦しみの中で、その悲しみを、全て主の前に注ぎ出したのです。すると何が起こったでしょうか?「ハンナの顔はもはや以前のようではなくなった」のです。状況が変わったのではありません。ハンナは祈りの中で「主へのまったき信頼」という勝利に導かれたのです。今日の箇所は、彼女の「心を注ぎ出す祈り」にも通ずる箇所です。しかし読めばわかるように、今日の箇所に「祈り」は一言も登場していません。今日学ぶのは、「祈りの姿勢」についてなのです。

いきなりですが、ウザはなぜ死ななければならなかったのでしょうか?彼が善意から、牛がひっくり返しそうになった神の箱に、手を伸ばして守ろうとしたのは明らかな事実です。「良くやった」と言われてもおかしくないのに…。でも、これはただの箱ではないのです。神様ご自身が「神の臨在の象徴」として定められた、神聖な箱なのです。聖書にはこうあります。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません(使徒17:24-25)」。つまりウザの行為は、悪気はなくても、自分が「神様」を守らなければ、とする傲慢な行為だったのです。

これはダビデに対する警告でもありました。ダビデは以前から油注がれ、王に定められていたのに、サウルに苦しめられました。しかしサウルも死に、7年間ユダを治めて後、ようやくイスラエル全土の王となったのです。「早くこの国を『一つ』にまとめなければ」とのプレッシャーもあったでしょう。そこでダビデは、新しい国の象徴として、エルサレムを新首都に定め、そこに神の箱を安置しようと考えたのです。一歩間違えば、これは神の箱の政治利用にもなりかねません。自分の利益のために、神様や、神様に属するものを利用してはいけないのです。ダビデのやろうとしていたこともまた、ウザと同じく畏れを欠いた行為でした。

三か月間頭を冷やし、ダビデは純粋な気持ちで契約の箱をエルサレムに迎えました。その際、ダビデは私利私欲を棄てて、神様の前で「力の限り踊った(14)」のです。それはただのダンスではなく、彼の心からの礼拝であり、祈りでもありました。そうすることで彼は、自分の「神様に対する愛と献身」を表明したかったのです。しかしミカルはそんな夫を窓から見下ろし、さげすんだのです(16)。彼女の言葉は非常に冷淡でした。「イスラエルの王は、今日ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、今日あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって(20)」。これ以上の軽蔑があるでしょうか!

神を恐れる(畏れる)ことは、冷淡になることではありません。今日の箇所には、二つの警告が含まれています。一つは、神様への畏れをなくすことへの警告です。いつの間にか神様を自分のために利用していたり、自分が神様のために何かをしてあげないといけない、と思っていないでしょうか。もう一つは、冷淡になることへの警告です。神への畏れと、感情を隠すこととを混同してはいけません。ある人たちは、静かで、おごそかだったら、神様を畏れていると思い込んでいるのです。そして、感情豊かな礼拝や賛美、そして祈りを心の中で軽蔑しているのです。

あなたの祈りには、神への畏れと、熱い情熱があるでしょうか?いつの間にか畏れを失い、神の御名を自分のために利用したり、自分が祈ってあげなくちゃいけない、と思っていませんか?またいつの間にか、祈りが冷たく、形式的になっていないでしょうか?畏れをなくさないよう気をつけつつ、熱く熱心に祈ろうではありませんか!

マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、
イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。
家は香油のかおりでいっぱいになった。(ヨハネ12章3節)

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